YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson268  連鎖3

「ほんとうの愛を与えられたことがなければ、
 人をほんとうに愛すこともできない」

っていう考え、あなたはYESですかNOですか?

先週の「連鎖2」には、
質・量ともに、スゴイ!!!
おたよりが届いています。
紹介したいメールがいっぱいですが、

きょうは、まず、
この問題を採りあげたいと思います。


<愛されない者は愛せないのか!?>

山田さんが前回のまとめ部分で書かれている
「愛されないと人を愛す事は出来ない」
と言う現象を、私は信じたくはありません。

私は「愛」を受けたと感じた事は
今まで一度もありません。

私は出来れば
人に「愛」を与える事が出来るような
人間になりたい
と思いながら、毎日を過ごしているのですが
「あなたがいくら努力したって無駄だよ」と
言われているに等しいのです。

何か私の人格そのものを
否定されたような感覚に陥ります。

人間は「愛」を与えられるまで、
人に「愛」を与えられないままなのでしょうか?

その人の人生に「愛」ある他者が
介入してこない限り、
その人は一生「愛」無き
人間になってしまうのでしょうか?

私が、人に「愛」を与えれられるような
立派な人間になりたい、
心の真っ直ぐな人間になりたいと思い
生活している毎日は、
無駄なものになってしまうのでしょうか?
(読者 大学2回生さんからのメール)



私は、「普遍的な答え」っていうのに、
どうも、最近、
興味がなくなってきているようです。

そのせいか、よいことではないのですが、
人に質問をしたり、
人から答えを聞こうということを、
ほとんどしなくなってきています。

こういうのも「正解なんてないんだろうな」、
「あっても自分にはつきとめられないだろうな」、
「だれかが正解をもっていると言われても、
その人の正解と、私と、なんのカンケイがあるの」
と、すぐ、思ってしまいます。

私は、こういうとき、「考えて」、
「自分の仮説」を立てて、
「自分の人生をつかって実験する」
という方法をとります。

「だれの言うことにも、頭までなびかせるな。
 信じたくないものは、
 自分の人生をつかって
 検証するまで信じなければいい」

これは、生きてるうちに
たくさんの答えを知る、
というのをあきらめてでも
自分でつかみたい、
という私のエゴかもしれません。

あるいは、「正しい答え」より
「納得感のある答え」を
私が求めているからかもしれません。

私の「仮説」はあとでお話するとして、
まず、朝とどいた、
胸をつかまれたメールから……。


<幸せと感じた日など1日もない>

青森市在住、24歳、女です。

この間

私は、母と過去のことを話しているうちに
気持ちが昂ぶり、
泣きながら次のようなことを言ったのでした。

「私は子どものころ、
 幸せと感じた日は一日たりともない」

言ってはならないことでした。

母から、家族から
愛されなかったからではありません。
私の生まれつきの、不安がつねに心につきまとう
という気質によるところが大きいのです。

ただ、そのことを子どものころ、
どのようにして人に伝えたらいいかわからず、
一人で抱え込み、苦しんでいました。

その苦しみを気付いてもらえなかった
(もちろん知らせなかったのですし)、
和らげるようなことはしてもらえなかった、
という恨みのような気持ちを、
大人になった今もずっと引きずっていたのです。

私がおもわず言ってしまったあとで、
母はうっうー、と声を出して泣きました。

母が涙ぐんだり、
悲しみに声をふるわせることはありましたが、
母の嗚咽を聞くのは初めてでした。

自分の言った言葉が、
女手で家族を養うため必死で働きながら、
子どもの幸せを願って生きてきた人にとって、
どれだけ酷なものであったか、
胸をつかれる思いでした。

それでも母は、涙をこぼしながら、
「ごめんなさい、申し訳なかった」
とくりかえしていました。

それから一週間も経ったでしょうか。
現在働いていない私は、昨日、ある地方紙の
支社の事務という仕事の面接を受けてきました。
応募者多数ということもあり、
採用はきびしいかな、と思いました。

眠る前、母に、だめかもしれない、とこぼしました。

今朝起きてみると、次のような母の書き置きが
私の机の上にありました。
勤めに出かける前に書いたのでしょう。

「真子へ
 あなたは真珠をもっている
 心の中にその輝きがあるのを私はいつも感じている
 もしも、今、会ったばかりの他人が
 気付かなかったとしても、
 そのためにその輝きを曇らせないでね」

なんという言葉でしょう。
あのように傷つけた人から、
私はこのような言葉をもらったのです。
私は泣きながら、
心にあたらしい風が生まれるように感じました。

私には今、将来への明るい見通しは何もないのです。
それでも私は生きていくのだ、と思いました。

母のことを思うに、とてつもない、かないっこない
巨きな愛というものがあるのを、今感じています。
(読者 真子さんからのメール)
  


「将来への明るい見通しは何もない、
 それでも私は生きていくのだ」
という言葉に無限の勇気がわいてきます。

私は、まるで「愛情ひでり」といえるような、
来る日も来る日も、
ひとりぼっちで生きた期間があります。

孤独は、どこまでも、深く、ながく、
うんざりしても、逃げてくれず、体につきまとい、
じたばたしても、どうにもならず、どうもできず、
一日が終わります。一日の暮れ、
西に向いた窓の向こう、
胸が痛くなるような夕陽をいつまでも観て、
私は、孤独にやられるままになります。

翌日、朝陽がのぼり、
また、昨日とおんなじ一日がやってきます。

そのころ、「人の幸せが歓べない」自分を発見し、
落ち込みました。
善人ぶって、と思われるかもしれませんが、
私は、どんな局面でも他人の幸福を歓んで来た。
そのことには、自信があったのです。

なのに、困難を克服した人の手記とか、
人の不幸にばかり、反応してしまいます。

私は、人の幸福を喜べず、
人の不幸は蜜の味なのだろうか?
そんな人間になりさがってしまったのだろうか?

ところが、人の不幸に敏感になり、
その人の話に耳を傾け、
その人が、私と同じくらい
寂しい想いしているのを知ると、
それが、リアルに感じられるだけに、

「いやだいやだ。
 人の不幸はちっとも蜜の味なんかじゃない。
 自分のような寂しい想いをしている人は、
 自分だけで十分だ。他に一人もいてほしくない!」
と、もっといたたまれなくなりました。

結局、私は、幸福からも、不幸からも、疎外され、
心はささくれて、自分は優しくない
冷たい人間になってしまったんだと
しだいに思うようになっていきました。

そんな時期から、
なんとか這い出して、しばらくたって、
前回言ったような、無条件の母の愛に触れたとき、

「ほんとうの愛を与えられたことがなければ、
 人をほんとうに愛すこともできない」
という言葉が、はじめて、
すとんと腑に落ちました。

私は、この言葉を受け入れて、
「なんだ、そうか!」
とすごく元気になりました。

「私が人の幸福が歓べなかったのは、
 私が冷たい人間に成り下がっていたからではない。
 あのとき、おなかがすいていたからなんだ」

私は、「愛」を「ごはん」にたとえて考えます。

ごはんをしっかり食べている状態で、
「山に登ってきて」「手の込んだ仕事をして」
といわれたらできる。

でも、1週間も、まったく飲食させてもらえず、
腹はへりきって、のどは乾ききった状態で、
「山に登ってきて」「手の込んだ仕事をして」
といわれても、できないし、
できないのがあたりまえです。

「そうじと愛情はためておけない」
という言葉を先日聞きました。

愛も、ごはんも、
こどものとき、おなかいっぱい与えられたから
いまは、もういいだろう、というものではない。
しばらくたったら、また、おなかがすきます。
定期的に、与えられないと、
元気を失うし、しまいには、生きられなくなる。

自分の子を虐待してしまう、
あるお母さんの脱却方法を、
ドキュメンタリーでやっていました。
そのお母さんもまた、子ども時代、
親から虐待されていました。

「子どもにお菓子をあげたい、
子どもを遊園地につれていってあげたい」
と、母親らしい気持ちが起きると、同時に、
「自分は子どものとき、
 一度もお菓子をもらったことがない」
「遊園地につれていってもらったことがない」と、
子どものときの自分が、
自分の子どもに嫉妬してしまい、
虐待してしまうのです。

そこを抜け出すためにどうするか?

人の「愛」を借りるのです。
福祉のサポートをしている方がやってきて、
そのお母さんに、まるで親のように、
手料理をつくって食べさせたり、愛情をかけたり、
「生きなおし」という、
子どものときに果たせなかった想いを
果たす、というプログラムをやります。

そうして、お母さんが、
愛をチャージすると、自然に、
子どもに嫉妬する必要もなくなり、
愛を注げるというわけです。

世の中には、もしかしたら、
愛というごはんをまったく与えられなくても、
人に愛を注げる人がいるかもしれません。

しかし、私は、
自分がそういうシロモノではないことが
経験の中でよくわかりました。
愛するまえに、まず、愛がほしい。

じゃ、どこへいって、どう愛をつかんでくるか?

ごはんを食うためには、働きます。
どうしても食えなくなったら、人に頭を下げて
食わしてもらって、まず、ごはんをチャージしてから、
まず、元気になってから、
また働いて、食わしてもらった人にお返しします。

つまり、愛し、愛される、という循環を、
自分の生活や仕事のなかに、
きちんと立ち上げていこうと考えて、
トライすることです。

愛は、与えれば与えるほど返ってくる、
と言われますが、
元手がないことには、与えられません。

読者の真子さんは、
足りないものを足りないと言えた。
ほしいと伝えた。
伝わった。
ほしいものをつかんだ。

いま、私には、いくぶんチャージがあります。
この期に、しっかり、与える愛を出すのと、
人から愛されるような自分を立ち上げるのと、
両方の努力をやってみようと思っています。

愛は、たとえば、
ものすごくおいしい料理人の料理を食べたり、
大好きなアーティストのライブを見た後、
歌からも伝わってくるように、
作品を通しても、込め、受け取れるものだと思います。

言葉にすると、薄っぺらくなるので、
ここに書くのをためらいますが、
私は、自分の書くもの、
また、講演やワークショップなど、教育の場に、
愛を込める、ということをやっていこうとしています。

そのために、
愛というコンテンツを自分の中にきっちりつくること。

では、どうすれば人から愛される自分になるのか?
愛し、愛される循環というものを、どのようにして、
自分の身のまわりの人間関係や、仕事において、
つくっていけるのか?

また、新たな仮説をつくって、体当たりで検証です。

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『考えるシート』講談社1300円


『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
メールの表題に「山田ズーニーさんへ」と書いて、
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2005-10-05-WED

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