YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson255 なぜか饒舌になるとき

ある演劇の演習を、見てきた友人が、
こんなことを言った。

その日の、その演習は、
先生が、わざと、意図を知らせず、
生徒に表現させていった。

それで、

演習がすすむにつれ、
自分で演習の意図に気づいて、
大事なことをつかんでいった生徒と、

最後まで意図に気づかず、
その日の演習の核心をつかめなかった生徒と、
差が出てしまったそうだ。

同じ空間に、
「わかっている人」と、「わかっていない人」、

その差は、歴然としていた。

同じものを学んでも、
それぞれの、「内面の準備」によって、
あるいは、ある方面への「慣れ」によって、
理解に差が出てしまうのはしかたのないことで、

「わからない」、そのこと自体、
「恥かしいことではない」、

と、私は思う。
第一、そんなことを、いちいち恥かしがっていたら、
なにも、新しいことは学べないもの。
未知に、からだごと、突っ込んでいった。
そのこと自体が尊い。

私が、注目したのは、ここからだ。

演習のあと、

なぜか、「わかっていない人」ほど、饒舌に、
その演習のことを語り、
言えば言うほど、
その人が、いかにわかっていないかが、
まわりに、あからさまになっていった、
という点だった。

そう。
そういう場合、多くは、
「わかっている人」は、黙っている。

声高らかに、しゃべっているのは、多く、
「わかっていない人」だ。

わたしも、記憶のなか、
なぜか饒舌になり、
しゃべればしゃべるほど、
墓穴を掘ってしまった経験が思いあたる。
そういう自分を振り返ると、恥かしい。

よくわかっていないなら、
しゃべらなきゃ、人にはバレない。恥もかかない。
なのに、そういうとき、
しゃべらずにおられない何か、がある。

なぜか饒舌になるとき、
そこに、どんな心理が働いているのだろうか?

以前、企業で編集者をしていたとき、

私は、原稿をいただいた先生に、
電話で、改作を頼んでいて、
ちょっと、もめたことがあった。

それまでは、先生の話をじっくり聞きながら
電話のやりとりをしていたのに、

途中、私は、「なぜか饒舌に」なった。

先生の言った、何かひと言に反応したのだ。
「そんなことありません! もう、先生、怒りますよ!」
とばかり、私は、私の考えを、一気にまくしたてた。

急におしゃべりになり、
しゃべる、しゃべる、一方的に、よくしゃべる、私を、
先生は、まったく、口をはさむことなく、
あいづちさえ打たず、
じっと、黙って、聞いて、いた。

話しおわると、先生は、きわめて、冷静に、こう言った。

「山田さん、怒るということは、図星ということです。」

このときの、ズッキーン! と
言葉がささる感じを、何年たっても、忘れられない。

いつも、いつも、
自分が怒るとき、相手の指摘が図星
とは限らないのだろうけれど。
このときから、私は、感情を荒げたようなとき、

「怒るときは図星」

という言葉が蘇ってきて、
ビクリ、とするようになった。

結局、このとき、私は、
先生の言葉を、否定することも、
かといって、肯定することも、絶対、できず、
一瞬、押し黙ったものの、
あとは、また、しゃべりまくって、
「なぜか饒舌」なまま、その場をなんとかおさめた。
いま、思い出しても、恥かしい、自分の姿だ。

「なぜか饒舌になるとき」と言えば、
こんなケースもある。

「ほぼ日」に感想メールを書こうとしていたときのことだ。

わたしも、「ほぼ日」の読者であり、
心に触れた記事があると、
ときおり感想メールを書いて送る。

「そうそう!私も同じことを想っていたの!」
という、「共感」や。

自分の経験に照らしてみて、
記事がこういうふうにしみた、という「理解」や。

新しい気づきがあった、という「発見」や。

ほうっておけば消えてしまう感想が、
稚拙でも、カタチになり、
自分のものになるのは、うれしい。
運よく編集部に伝わったときは、さらに、うれしい。

多くは、そんなうれしいやりとりなのだが、
その日だけは、ちがった。

「ほぼ日」の、ある記事を読んで、
すぐに、感想メールの欄を押してしまっていた。

だけどヘンなのだ。
普通は、何か伝えたい気持ちがあって、感想を書く。
だけど、その日は、「感想を書く」というのが
目的になってしまって、無理やり、
書くことを、探し出し、こじつけようとする自分がいた。

書くことがないなら、「黙って」いればいいのに、
黙っていられない。
これも、カタチはちがうけれども、
「なぜか饒舌になる」瞬間だった。

何か伝えたい気持ちがないのだから、
メールを書いていて、どんどん、自分が、つまらなくなる。
書いては消し、書いては消し、をくりかえした。

最初は、記事に対して、
「そうだそうだ、そのとおりだ」
というようなことを、私は、言おうとし、
そのうちに、
「私は、断じて、記事に出てくるような、
 そんなことはしておりません」
というような内容になっていった。

たとえは悪いかもしれないけれど、
クラスで、給食費がなくなったようなとき、
自分はとっていないし、
だれも自分をうたがっていないのに、
自分から、「私はとっていない」と言って、
言えば言うほど、墓穴をほるような、
なんか、そんな感じのメールになってきた。

それじゃまずい、と角度をかえると、しだいに、
「いちゃもんをつけたいのか自分?」
という感じになってきて、
そのうち、
「いったい自分は、そうまでして、
 なんでメールを書こうとしているのか?」
と考えて、「はっ!」とした。

これは、「雑音」だな。

ひとことで言えば、私は、記事の内容に関して、
無意識の部分で、なにか、うしろめたかった。
まったく人を攻撃するような内容ではなかったのに、
無意識の部分の何かが、
攻撃を受けたような感じがしていた。

口を閉じて、静けさに耳を澄ますことで、
それが、自分の身に、ひたひたと迫ってくる。
その音から逃れようとして、
私は、自ら「雑音」を立てていたのだ。

沈黙への抗い。
黙すれば、聞かねばならぬ音がある、
気づいてしまうことがある。
それに抗い、紛らす、自分がいた。

こういうときは、苦痛だけど、
いったん、発言スイッチを切って
静けさの中に、耳を澄ましたほうがいい。
そう思って、そのときだけは、
メールを書くのをやめた。
そうして、私は、じっと自分の心の音を聞いた。
あのとき、静けさの中に、
自分を解き放ってよかったと想う。

なぜか饒舌になるとき、
そこに、どんな心理が働いているのだろうか?

静けさの中、自分が聞くべき音は、何だろうか?

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『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2005-07-06-WED
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