YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson229 失ってからはじまる

「いつ死にたいかっていうと、
 たいていみんな、
 人生のいちばんいいときに死にたい
 って言うのよね。」

何かの話の流れで、
友人からそう言われ、思わず、

「もったいない!」

と口をついて出てしまった。
だれでも、
「満ちたら、欠けるのをみたくない」のだろう。
その考えはわかるけれども、もったいない。

昔、そんな映画があった。

外国映画で、ヒロインが、
恋愛の絶頂期に、自分で死んでしまう。

それを観た私は、こども心に「そりゃ、ちがう」と思った。

映画解説には、恋愛のいいときは短くて
それを過ぎれば、
かならず何かが翳っていくとかなんとか、
だから、いちばん美しいときに、
いま死にたいととかなんとか、
そんなことが書いてあり、
頭で理解できるのだが、
身体がいっこうに納得しなかった。

だれだって、
大切なものを得たら、少しも減らしたくないし、
出逢ったら、別れたくないし、
失うなんて、そんな恐ろしいこと、
考えたくもない、のだろう。
それは、私もそうだ。

でも、失うことは悪いことなんだろうか?

だったら、私たちの人生は、どうして、
だれでも一度は大切なものを失い、それを
のり越えなきゃいけないようになっているんだろうか?

私が思うに、自分で
「いまが人生最高だ、いま死ねたら……」
なんて思うような瞬間は、
実は、まだまだ人生の序の口で、

いったん大切なものを失って、
つらくてしかたない時期がきて、
そこから先が、やっと人生の本番。
本当に面白いことも、本当にきれいなものも、
本当に大切な人も、その先に待っていると思う。

だから、その先を生きてみないともったいない。

そのことを、ある人に言ったら、
「ものは考えようだよね」
といわれ、悔しい想いをした。

ちがう。「ものは考えよう」なんかじゃ、決してない。

会社を辞めた話をすると、
愚痴にしか聞いてくれない人がいる。なぜだろう?

私は、なんとかわかってもらおうと、
会社を辞めてこそ、
巡り会えた人たちの話、
読者や、勇気のある編集者さんや、仕事仲間、
これまでつきあったことのなかった
面白い友人たちの話をした。すると、

「そういう、私だったらつらいとしか思えない状況を、
 そんな風に肯定的にとらえられる山田さんがエライ!」
と言われ、カパーン!とアゴがはずれるような気がした。

ふと、似たような光景を思い出した。
私も、ある人の話を、
愚痴のようにしか聞けなかった時期がある。
そのある人とは、母だ。

私の母は、姉が嫁に行き、
私が大学で、家を出た直後から、
しばらく心臓を患った。
いまは、ものすごく元気だけど。

それまでの母の人生のすべてをかけた、
「子育て」という生きがいを失ったからであることは、
あきらかだった。

いまでこそ、
自分が産み育て、ひとつ屋根の下で暮らしてきた子どもが
巣立っていく日が近づいた時、
母の気持ちはどうだったろう、とか
その後の、もぬけの殻の日々はどうだったろう、とか
想像することもできるのだが、

当時の私は、罪悪感が強くあって、
とにかく、そこを見たくなかった。

母が、姉と私が家を出ていったときの話をするのが、
苦痛でしかたなかったし、
母が愚痴を言っているようにしか思えなかった。

でもいま、自分の見方がまちがっていたと思う。

あのとき、母が伝えようとしていたものは、
愚痴ではなく、もっと大切なもの、
一生懸命生きてこその、喪失感というか、
むしろ、「誇り」に近い感情ではなかったかと。

自分なりの小さいサイズだけど、
大切なものを失ってみて、そう思うようになった。

誤解を恐れずにいうと、
私は、それまでの人生の真ん中にあった
大切なものを失ったとき、
つらくてしかたがない日々のなかで、
どうしてか、心のレベルが上がったような気がした。

私は、ふだんは決して、
心のレベルとか、そういうもの言いはしない。
もともと段々をつけるのが嫌いな人間だし、
宗教も持っていないので、
そういうことを軽々しく口にするのが好きではない。
「レベルアップ」とか、「成長」という言葉も
軽々しくはつかわないようにしている。

でも、そのときは、なにか、
そうとしか言いようのない感じがした。

ものごとを観る目の、なんとも言えない澄んだ感じ。

たしかに、それまで、自分の真ん中、
生活の真ん中にあったものを失うのだから、
それは、つらくてしかたがないには違いない。
ぽっかり穴のあいたというか、
もぎ取られたような痛みというか。
想い出すと、胸がしめつけられ、
楽しい場に出ても、孤独がひゅーひゅー唸っている。

でも、そんな状態でも、
ごはんは食べるし、人には会うし、
はた目には、
わりと普通に見える感じで、日々を過ごしていく。

で、それだけ大切なものを失って、
それ以上大切なものに
もう巡り会えないかもと思っていても、
もう、ちょっとやそっとのことには、
心が動かされないと思っていても、

それでも、まだなお、
「きれい」とか、「素晴らしい」とか、
心動かされるものに出くわすから不思議だった。

しかも、自分はいままで、どうしてこういうものに
出会わなかったんだろうと思えるほど、
新鮮に、心に染み通る、出会いが数あった。

そのころ出会い、
自分が選択したものは、まがい物が少なく、
いまも自分の大事な部分を占めている。

考えてみれば、それは、カンタンな理屈だ。
自分の中の「基準」が変わったからだと思う。

本当に大切なものは失ってみないとわからない。

失うまいと、気が気ではないほど執着したものが、
無くして、しばらくたってみると、
どうしてあんなものに執着したんだろう、と思うほど、
実は、たいしたものではなかったり、

逆に、自分の中でさほど大きくはなかったものが、
失った後で、どんなに大事であったか、気づかされたり、

一度、大切なものを確立して、
かつ、それを失った人間には、よくわかる。

自分にとって、何が大切で、何が大切でないか、
なにがうそで、何が本当か。

だから、その先の選択は、
人目や、雑音、一時の欲にまどわされず、見過ごさず、
自分にとって、本当に大切なものが、
心に響いてくるようになってくる。

そうなったら、
そこからの出会いは、本当に面白くなってくる。

母は今、とても元気で、人生を楽しんでいる。
私が会社を辞める際、存分にやりたいことをやれと、
最も勇気を与えてくれたのは母だった。
その力強さがどこから湧いてくるのか、驚くほどだった。

すべてをかけて子どもを育て、
それだけ大きな喪失感を得ることができたからこそ、
母は、その後を生きる、
自分にとって本当に大切なものを見た。

喪失の痛みが大きいということは、
それだけ大切なものと出会い、
育んできたという誇りでもある。
母は、喪失感と同時に、
その誇らしさを伝えたかったのだと、
いまはよくわかる。私も、家を出た罪悪感ではなく、
そのことに誇りを持って生きていこうと思う。

失ってからはじまる。

もし、大きな喪失感を得たら、それに敬意を払い、
その先に広がる面白い世界を待ち望んでいいのだと思う。




『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2004-12-22-WED
YAMADA
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