YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson206
外と通じ合う力
――勉強?それとも仕事?(4)


人には、
自分にとって不快で、

これが私のやりたいことなのか? 

と疑うようなものを
人から乞われ、

しかもそれを進んでやらないと
いけない時期があります。

それは、本当につらいけれど、
そうやって「外」と関わって、

自分を表現し、
またその反応を受けて進んでいく果てに、
自分の表現したことへの理解者は生まれて、
通じ合う可能性も生まれてきます。

そして通じ合った時、
人との間に生まれた絆こそが、

他の人とは取り替えのきかない
自分の居場所になるんだと思います。

(「考える高校生のためのサイト
 mammo tv」http://www.mammo.tv/
 7月19日から掲載分「今週のインタビュー」より抜粋)


――これは、先日取材に答えて、私が言ったことだ。

小さな自分の仕事人生をふりかえってみて、
「仕事」として明らかな成果が出たものは、
必ず、その前に、このような、
「外と通じ合う」ための苦闘があった。

「外」とは何か?

まず1人の「他者」だ。

自分の文脈が通じない他者と、
単なる自分の好き・嫌いを超えたところで向き合い、
自分を通用させていく。

自分の外とコミュニケートでき、通じ合う力。

これが、仕事には不可欠だと思う。
このシリーズがはじまって以来、
勉強でない「仕事」に求められる力として、
もっとも多くの人があげているのも、
「コミュニケーション力」だ。

他者の気持ちをつかむ、動かす、
自分を表現し、信頼を得る、役立つ、
もう一度、他者の反応から、自分を見つめ直す。

勉強から仕事にスイッチチェンジするとき、
コミュニケーション力を全開にすることは不可欠だが、
現場から聞こえてくる声は、とまどいが大きい。

新卒でIT系の会社に入った、読者のセイジさんは言う。

<4月から「仕事」は始まっていた>

現在、研修計画に基づき一日の殆どを
基本情報技術者試験の試験勉強をしています。

「こんなに(机上の)勉強をしていていいんですか?」

と上司に聞いたら
「いいんだよ」と言われた。
しかし、別の部の10歳上のTさんから、

「お前は、アピールが足りんわー」

と言われました。それは私が消極的で
なかなか先輩方の話に入っていけない、と言う事と
言われた事だけやってるのではないか、という事、
ショックでした。

今まで、結果が全てであった
学生という立場にいた私としては
すぐに納得いくものではありませんでした。

「勉強」は自分自身の為に、
「働く」のは他人(顧客)の為に何かをする、
という事であるとは思います。

アピールするのは、何もしない事より、
とても頭を使うことだと思います。
それは、相手をよく見て、
状況を読んで、行う事だからです。

「上司にアピールできないのに
新規の顧客にアピールできるのか?」と
いう先輩の意見には何も言い返すことができませんでした。

何となくアピールするのは恥ずかしいな、
実力があればそれでいいじゃないか、
と考えていた自分はまだ
仕事ができる状態ではなかったのかもしれません。

私は、
「(仕事をしなくて、つまり自分の為になる事として)
 こんなに勉強していていいんですか?」
と聞いたつもりだったのに、
もう4月から仕事として始まっていた、と言う事に
たった今気づき、愕然としています。

しかし、明日から自分なりにアピールして、
先輩方と喋れるようになりたいし、
そのためには
どうしたらいいかを考えて実践していきたい、
と考えています。
          (読者 新入社員のセイジさん)


<なぜこんなにも幼稚な次元で>

総務・人事の仕事を担当していました。
人間関係のトラブルやら、仕事に関する悩み、
会社への不満など、
立ち入るつもりはさらさらなくても、
時には直接
話を聞かなければならないこともあったのですが、
だいたいはほんとにバカらしいことで…

例えば、「朝あの先輩に挨拶したのに無視された
(のではないか?)」とか
「他の子ばかりに仕事を頼む」とか。
それが必ずしも、
仕事への意欲の低い者とは限らないのが不思議なところ。

いかにも女性特有の問題かと思いきや、
意外と男性でもこういう手合いはいるもので…
それから「会社に幻滅した」とか
「自分が理想とする仕事をさせてもらえない」
なんていうのも。

必ず一言わせてもらってました。
「そんなの当たり前じゃん」。
皆たいてい、ギョッとした顔をしますが、

「あなた会社に何しに来てんの?」

          (読者 元総務・人事さん)



いったいなぜ、仕事の現場に出て行ったとき、
私たちのとまどいは、こんなにも大きいのだろうか?

いま、大学生と接していると、
彼らは、ほんとうにいろんなことをよく
「わかって」いるな、と思う。

小さいころから、テレビや映画や音楽や、漫画や、
洗練された
たくさんの情報をインプットしてきただけあって、
瞬時に、「ものの質」をかぎ分ける。

つまり、
インプットに関しては、目が肥えていて、うるさいのだ。

何かを投げかけると、それが面白いか、面白くないか?
自分に関係あるか、ないか?
うそをついているか、ほんとうのことを言っているか?
すぐ見抜いて、つまらないものにはしらっとする。
よいものには、鮮やかに反応する。

彼らに向かっていると、自分の中の浅薄な部分さえ、
瞬時に映し出されるような気がする。
彼らは、まるで鏡のようだ。

その素晴らしさを、富士山にたとえるとすると、
アウトプットに関しては、
海辺に子どもがつくる砂山のようだ。

その落差に、ガクゼンとする。

自分の考えを、
話したり、書いたりしてアウトプットする力を、
ほとんど使ってきていない。
潜在力はあるし、ちょっと鍛えればできるようになるのに、
もったいなくてならない。

そして、自分の身内でない、外の人物と関わったり
話を通じさせていくような力は、
ほんとうに鍛えてきていない。

それ以前に、「他者」がいないのだ。

もちろん、大学生の中にも、介護福祉士を目指していたり、
消防士を目指していたり、
自分が将来関わっていく
「他者」がはっきりしている人がいる。
そういう人は、たとえ1年生でも、
就職の志望理由をプレゼンしてもらうと、
自分の考えを、実にわかりやすく人に話す。

彼らの夢の中に他者がいる。

ところが、かなり多くの学生が、
自分と家族、恋人、気のあう友人……、
そこから先が、ズドン! と欠落している感じなのだ。
その先の「1人の他人」との接点がない。
その先は、もう、「人類」みたいなところにいってしまう。

だから、人と向き合うとき、
好きか嫌いかで見て、好きな人とだけ、
自分のいまの文脈から
一歩も外に出なくてもいられる人とだけ
一緒にいる。それで、とくに問題はおきない。

彼らだって、自分の世界をひろげたいと思っている。
だがいざ、
距離のある人間に自分を開こうとすると面倒くさい。
「ちょっと面倒くさい」
ということが最大の理由ではないかと思う。

「他者」がいない。

そういう人に、どうやって、
身内でも、
恋人でもない「他者」の存在を理解してもらうか?
これがとても難しいと思っている。

私は、以前、合格力の構造化に携わったことがある。
たとえば、英語なら英語、数学なら数学で、
大学受験に合格する力を全部洗い出して、
それらの関係を構造化するのだ。
たとえば、「語彙」があって、
その先に「文法」があって…というように。

英・数・国・理・地歴公民……と、5教科そろってやり、
そして小論文は、その年代のものは私が担当した。

いまから思うと、受験勉強には、
「他者」が登場しない。
「他者とのコミュニケーション力」が、
私自身、学校で
要求も評価もされてこなかったのだと、
いまさらながら気づいて、驚いている。

かろうじて、小論文には、
「採点官」というリアルな「他者」が登場する。
小論文のゴールは、やみくもに
よい文章を書いて偏差値をあげることではない。
文章の向こうに、必ず「人間」がいて、
その他者は、例えば医学部・法学部……といった、
学問の現場から、ほしい人材を選んでとろうとしている。
その他者に、自分の考えを通じさせ、
大勢の中から、「こいつだ!」と選ばれること、
それが、小論文入試のゴールだ。

自分の考え・適性を知り、
他者が何を求めているかをつかみ、
そこに表現をしかけていく。

でもそれ以外の教科では、
点をとれば、公平、かつ、平等に評価される。

現実社会では、そんなことはありえない。
社会に出たら、他者とのせめぎ合いだらけだ。

表現しなければ、存在すら認められない自分、
自分の文脈が通じない他人。
自分の仕事が評価されるのも、
実に「人間的」な判断だ。

受験勉強は大変だったが、
他人の痛みがわからなくても責められることもなく、
自己表現も求められず、
葛藤をこえて、他人と通じ合うスキルも要求されず、
なんと守られた楽園にいたのか、と思う。

それでよかったのか?

上司や、同僚とのコミュニケーションを
もっととろうと言うと、
「あの嫌いな上司を
 好きにならなくてはいけないのか?」とか、
「職場のみんなと仲良くしなければいけないのか?」
とか、そこにはまって苦しむ人がいる。

好きか嫌いかを超えた、
人間との向き合い方があると言っても、
想像はできても、経験をしてきていない人には、
いざとなると難しいのかもしれない。

好きか嫌いか、
仲良くなるか、ならないか以前に、
他人が、何を目指し、何を想い、
どんな問題を抱え、
自分に何を期待し、自分をどう見ているかを、
まず、把握すればいいのではないか。

同様に、自分の考えも伝達し、
知ってもらえれば、それだけでも意味がある。

コミュニケーションにおいては、
偏差値よりも、
どれぐらいの距離感のある人間と、何人くらい、
どう関わってきたか、という経験値がものを言う。

アプローチしても分かり合えなかったという痛みも、
相手の反応を直視すれば、
大事な経験値になる。

どのようにして経験値をあげていくか?

その機会は、今日も訪れている。
私たちは、毎日、その機会を迎えつづけ、
また、逃しつづけてもいる。

どうしたら、仕事をとりまく他人、
まずは、1人の他人の気持ちがわかるのか?

どうしたら、自分の考えを
1人の他人に正確に伝えられるのか?

どうしたら、好き嫌いをこえ、
自分は他者と通じ合うことができるのだろうか?




『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2004-07-14-WED

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