YAMADA
おとなの小論文教室。
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Lesson200 想いを素直にあらわす力


いま、大学で、学生を教えていて、
あらためて、気づかされることがある。

「後悔」というのは、
自分が「表現してしまった」ことよりも、
「自分を出せなかった」ことに対して、
生まれている、という事実だ。

講義で、学生に自分の想いを書いたり、
話したりしてもらった後、
かなり赤裸々に自分の想いを表現した学生たちも、
不思議と、「あんなことを書かなきゃよかった」
「言わなきゃよかった、後悔した」
という感想は、もらしたことがない。

それどころか、逆なのだ。
本当の想いを表現できた学生たちは、
「恥かしかったけど言えたー!」
「聞いてもらえたー!」
「おもしろかったー!」
とそれが一気に歓びにつながっている。

反対に、言えなかったのか、言わなかったのか、
ともかく「自分を出せなかった」学生は、
言わずに済んでよかったとは思わない。
それが、こちらの予想以上に、
後で苦になっているようで、ときには、
何か怨むような感じにさえなることがある。

人は、心底では、自分を表現したいのだと気づかされる。

このところ、このコラムでテーマとなっている
「選択」についても、同じことが言える。

「選ぶ」という行為によって、
自分の体の中にあった想いを、
外に表せた、というとき、後悔はない。

自分で「それを選んだ」ことによって、
体の中のもやもやは、カタチを与えられ、
人にも知ってもらえ、外からの反応ではねかえって、
自覚になり、「意志」になる。

一方、それを選んだからといって、
何も自分の中身を表現したことにはならない、
むしろ逆に、
自分の中にある想いを閉ざさなければならない、
というとき、後悔になることがある。

選択も自己表現と考えれば、
選ぶという行為を通じて、人は、
自分の内面を表し、
外の世界とつながることができる、

だから、どっちを選んだかは、ほんとにどうでもよく、

選択は、選んだときのその人のメンタリティ、
つまり、何を大事に、どう考えてそれを選んだか、
どう想って、その選択を生きるかが、
とても重要だと思う。

前に向かった勇気ある選択に、道は拓かれる。

逆に、「私なんて、どうせ、この程度だから」とか、
「これを選んで、だれかにあてつけたいだけ」とか、
マイナスのメンタリティからの選択には、
いつまた、ふりだしに戻るかわからない脆さがある。

これから私は、選択に迷うことはあっても、
自分の持てるすべてで向きあって、
本当に自分がいいと想うことを、
勇気をもって、全力でやっていこうと思う。

当たり前のことのようだけど、
「これからは、仕事にしても、人生にしても、
本当に自分がいいと想うことを、やっていけばいいのだ。
やっていっていいのだ。」
と、先日、気づいたときは、
静かな感動が、しばらく体の中から消えなかった。

私たちは、
「本当は、これがいいと想っているんだけど…」
と、自分の想いとは、
別のことをしてしまうことがある。

自分が本当はいいと想っていることがあるのに、
なぜ、素直に言葉や行動にあらわせないのだろうか?

例えば、仕事において、
自分が本当にいいと想うものを出してみる前に、
まず売れるものにしなきゃいけないんじゃないか、
という強迫観念に、固くとらわれてしまうことがある。

すると、組織への貢献とか、
データとかに縛られ、発想は自由さを失っていく。

そういう心理状態にとらわれてしまうのは、たいてい、
企画の真ん中にくるような
強い言葉が見つからず、不安になっているときだ。

あまりに、広大な荒野に、
自分の企画を打ち立てていく自由さが恐くて、
先に、枠を引こうとしてしまう。

そういう、あらかじめ発想の幅を縮めるような
やり方でつくったものは、人の心を動かさない。

逆に、自分の中から、どうしても伝えたい、
強い言葉がわきあがってきて、
お客さんの存在を確信するとき、
売れるか売れないかは、もう、どうでもよくなっている。

そのようにしてつくられたものこそ、人の心を打つ。

あるいは、
「自分がいいと想うものはあるのだが、
自分には才能がないし、自信が持てないから」
と言って、自分の中からは、なにも起こさずに、
外に正解を求めたり、
他者から正解をとってこようとしたり。

そのようにして外側からとってきた情報ありきで、
パッチワークしてつくるものは、
一般的で、説得力がない。

自分に自信がもてないからと言って、
外に正解があると思うのは、
謙虚なようでいて、実は、傲慢だ。

自分の想いから出てくるものが、
どれほどのものか、出して、その正体を見たり、
外に問うて見る前に、
「自信がない」と切り捨ててしまえるのはなぜだろう?

自分の想いがあるところは、
自分の知識や経験が集まっているところだ。
得意の土俵で勝負しようとせずに、
外から取ってきたもので、
土俵外で勝負できると想うのは、なぜだろう?

他にも、
みんなからよく想われようとしたり、
自分以上に、かっこよく見られようとしたり、
そういうときに、
自分が本当にいいと想ったものを譲ってでも、
過剰な見栄を張ろうとする。

それは、見栄だから迷走する。
仮に、見栄をはりきれたとしても、
そういう虚勢に集まってくる人々とのつながりは虚しい。

数は少なくとも、
自分のいつわらざる想いを表現して
そこに深い理解者を得たとき、訪れる満足を味わうと、
虚勢をはることも、
「みんな」から好かれようとすることも、
実は、必要がないのだとわかる。

私も、そうした迷走を、なんどか経験し、
身をもって、とらわれていたものをひとつ、また、ひとつと
払拭してきた。

だからこそ、いま、本当に自分がいいと想ったことを、
人の目や、いろんな思惑にとらわれないで、
素直に全力でやっていけばいいのだと、
やっと、言えるようになった。

自分が本当にいいと想ったことをやってみて、
うまくいくかどうかは、ほんとにだれにもわからない。
だれにもわからないから、やってみるしかない。

自分が本当にいいと想ったことを、
言葉や行動で表わしてみて、
よい結果を得たら、本当に嬉しい。

自分の体の中にあった想いが言葉になり、
自分の考えが仕事になり、
形になり、他者とつながる。

深い内的満足があり、自信になり、その先へ進める。

自分が本当にいいと想ったことを全力でやってみて、
良い結果を得られなくても、不思議に爽やかだ。

全力を出し切ってだめだったときは、
不思議と、そこまでの日々が無駄だったとか、
努力がもったいない、かえせ、戻せ、とは思わない。

体全身で、「この方向はないな」と気づき、受け入れ、
諦めるまでに、
どうしても必要な時間だったとわかるからだ。
なにより、体が納得しているから、潔く、次をあたれる。
やっぱり、前に進んでいる。

自分の想いを素直にあらわす力。

自分が本当はいいと想っていることがあるのに、
それをせず、別のことをやろうとしてしまうとき、

自分の想いを譲って、
自分が優先しているものは何だろう?

そこで自分がとらわれているものは、いったい何だろうか?





『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2004-06-02-WED

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