YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson 173 伸びたり縮んだりする理解
     ――自分のリテラシーを高める(2)

「自分には能力がない。」
そう思っている人は、すごく多い。だから、

「能力不足だから、いまの自分じゃだめ! 
もっと多く知識を吸収して、
もっと多く技能を学んで、もっともっと」
とみんながんばるんだけども、

「けっこう、もう能力、あるぞ、自分はあるぞ!」

と、いったん、ふんばって思ってみたら……?
何が見えてくるだろうか?

日本の15歳の「読解リテラシー」が世界8位、というのも
意外に思った人が多かったのではないか。

「いまの日本の若いものは、ものが読めない。
テストの点はとれるが、考える力がない。
マスコミなどの情報に簡単に操作されてしまう」
そういう通念がある。

若い人の「読む力・考える力・書く力」の教育に
ずっと関わっている私も、
残念ながら、答案を読んで、そう思うことは、しばしばだ。

でも、この「読解リテラシー」のテストは、
通りいっぺんの文字の読み取りではない。

「ほんとうに読み取るべきは何か? 自分の頭で考える」

ところまでが問われている。
複雑な情報から、要るものを「取り出し」、
「解釈し、推論し」、
自分の考えと関係づけて、
「熟考」し、「評価」し、「記述」し。

ある目標に向かって、「利用」できるところまでを含む。

この結果に過剰反応してはいけないし、
「読解リテラシー」があるといっても、
1位のフィンランドほどではないけど。

「いまの日本の若いものも、そこそこ、ものが読めるし、
 けっこうわかってる。
 考える力もけっこうある」
という前提に立って見ると、なにが見えてくるだろうか?

先日。

私は、友人からのメールが胸にひっかかっていた。

そのメールとは、まあ、要約すると「愚痴」。
愚痴はこぼしてくれてもいいのだが、
なんだか、それを、無理やり「社会問題」に仕立ててあった。
その論があんまりにも短絡的で、
視野が狭く、自分中心で、依存的で、紋切り方。

これが、入試の小論文だったら、
まっさきに、落とされるだろうな、と思った。

最初、どきん! として、次にがっかりして、
やがてむしゃくしゃしてきた。

友人の論が、いかに「思考停止」だったとしても、
それで、私が怒るすじあいではない。

なのに、なぜか腹がたった。なぜだろう?
こどものころ、

学校で、人権問題をならって、
家に帰って、お父さんに話をしたら、
お父さんが、差別意識、丸出しの発言をしたときのことを
思い出した。

あのときも、最初、どきん! として、次にがっかりして、
やがてむしゃくしゃしてきた。
いつまでも父に腹がたっていた。

友人のメールを好意的に解釈しようとおもっても、
むしゃくしゃするので、散歩に出た。
でも、くりかえし、くりかえし、
友人のメールのことを考えてしまい、
そのたびに、
「私は、ほんとに、この友人のことが好きなんだな」
と認めざるをえなかった。

結局、1時間の散歩から戻ると、
友人のメールのことを、ずっと考えてしまったな、
気が晴れるどころか、
胸のむしゃくしゃは、よけい大きくなった感じがした。

そのとき、T編集長からメールがきた。

私は、この夏、高校と大学をつなぐ教材を開発した。
それが、さっそく、ある大学で採用され、
1000近くも購入していただけたという
嬉しい知らせだった。

「自分の頭でものを考える」新大学生が増えたら、
キャンパスはもっと面白くなる。

そういう志をこめてつくった教材だった。
採用されたこともうれしかったけど、
T編集長が、教材にこめた志を、
よくわかってくださっていて、
深い理解に裏打ちされたコメントをくださったことも、
ほんとうにうれしかった。

これで、大学や考えることが
楽しみになる生徒が、一人でも二人でも出てくれたらなあ、
そうおもうと、
心のすみずみまでが、さぁーっと晴れわたった。そのとき、

「つらかったろうな。」

という言葉が浮かんだ。その瞬間、
例のメールをくれた友人は、つらかったろうな、
ということが、すみずみまで、よく理解できたのだ。
私に、愚痴をいわなければいけないくらい、
どんなに、くやしかったろう。
つらかっただろう。
私も、似たような経験があったことを思い出した。

友人は、小論文を披露しているわけでも、
思考力のテストをうけているんでもない。
メールを書いたのは、
わたしに、そのつらい気持ちをわかってほしかっただけだ。

メールから、私が本当に理解しなければ
ならなかったのはなにか?
わたしに、本当に、求められていたのは何か?

その瞬間、ほんとうにすみずみまでひろく、
しっくり深く、わたしは、友人のメールを理解しきった。

不思議だ。

友人のメールは、最初の時点から何一つ変わっていない。
そして、わたしの「理解力」が、一瞬にして
飛躍的に伸びるわけでもない。
しかし、まったく、それと関係ないT編集長のメールで、
私の「理解力」は、都合よく、伸び縮みした。

わたしの「心が狭くなっていた」と気づかされた。
次の教材開発と、大学の講義と、講演と、
トリプル締め切りで、心の余裕を失っていたと。

T編集長の温かな理解に、こころひろがって、
はじめて狭くなっていたことに気づけたのだ。

そういえば、「読解リテラシー」世界1位に大きく
貢献したと言われるフィンランドの地理の先生が、
とにかく生徒を緊張させず、
リラックスした状態にさせることに
気を配っておられたのを思い出した。
「緊張感がある方が、必死で勉強するんじゃないの?」
と私は最初、違和感をもったので、いまもよく覚えている。

よく、心が狭い人間とか、広い人間とか言うが、
もともと、心が狭いという人はおらず、
緊張したり、何かにかき乱されたりすると、
心は、ぎゅっとつかまれたように、
狭い状態になってしまう。

伸びたり、縮んだりする心。

私の場合、この心のふり幅が、
人の発信を、理解し、受容し、熟考するふり幅、
つまり、読解リテラシーのふり幅に
大きく影響していたことがわかる。

他はともかく、読解・理解に関しては、
心が本来の状態にひろがって、スペース充分なことが
必要なんだな、と思った。

はっ! 友人も?

そう思った。
友人は、もともと、視野が狭いわけでも、
思考停止なのでもない。

ふだんなら、幅広く、柔軟にものごとが考えられるのに、
メールをくれたとき、
つらいことがあって、心を緊張にわしづかみにされて、
狭くなっていた。
その幅が、リテラシーの幅を制限し、
周囲の情報を、一面的に解釈することしかできなかった。

心とリテラシー

理解の幅は、そのときの心の面積に規定される。
潜在的に、どんなに、
複雑で高度な情報の読み書きができる能力がある人でも、
そのときの、心の面積が、
狭くなってしまっていれば、理解力は発揮できない。
それどころか、情報の解釈までがゆがんでしまう。

そして、心の容量が、「オレが、オレが、」の
「自我」でいっぱいだったら、
そもそも他の、大きな情報を、正確に取り込んだり、
熟考したりする、スペースそのものがないわけだ。

心の訓練がなかったら、
結局すばらしい能力も生きないのではないか?
そうおもった。

考えたら、たとえば、仏教には、
「空(くう)」とか、「無我」とか、利他の精神とか、
心の状態を表し、鍛えていく言葉がある。

しかし、私のように、
宗教をもたず、また、宗教を持たないまま
心を訓練していくって、どうやればいいんだろう?

アメリカで、進んだ「心の教育」を研究している、別の友人に
メールを送ったら、こうかえってきた。


 >>わたしが山田さんのやっていることから感じるのは、
 表現の出発点は、「自分の声」を探すことからはじまり、
 そしてこれがもっとも大事にしなくてはいけないこと。
 それから、
 他者や自分とコミュニケーションするために、
 その声を成熟させていく問いの立て方と、
 成熟したものを表現していく技術を身につけていくこと。

 それを一般論でなくて、山田さん自身が
 自分の体験から、このプロセスを通過させて、
 発信しているので、読んでいて、共感できる、

 心の鍛練なんて、毎日十分やってるんじゃないですか?
 読者とのやりとりや、生活のなかで。>>


この友人は、わたしと同様に、教育を目指しているのだが、
この分野では、ずっと彼女の方がくわしい。
でも彼女は、
その知識や経験をふりかざすことをいっさいせず、
むやみに私を緊張させたり、不安を煽って
よけいに勉強させようというようなこともせず、
上記のように、私を落ち着かせ、
リラックスさせるメールをくれた。
わたしは、ふっと、緊張が緩み、また周囲の情報が
自然に入り込んでくる。

やっぱり、心の教育に精通している人だな、と思った。

いじめ、虐待、テロ、
「人の気持ちが理解できない」人が起こしている行為
としてではなく、
もともとは、潜在能力が高く、
さまざまな情報の判断や、評価、熟考がよくできる人が、
よくできるのに、できないで
生れている行為だとしてみると、どうなるか?

私の心が狭くなるポイントは何か? と考えてみた。

先週書いた、「けがをした母」がらみの一件の、
9年くらいまえにも一度だけ、
同様のおおぼけをしたことがある。
そのときは、田舎から
「幼い甥と姪」を呼んでいて、
子供のいないわたしにとって、
この子たちは、とても大切で。

あまり、失って恐いもののないわたしだけど、
家族だけは、ものすごく大切で、
ときに、執心してしまい、
それゆえに、家族のことで、緊張が生じると、
心が狭く、周囲への理解・受容がまずしくなりやすい。

エゴ、無理解、情報認識のゆがみの生れやすい、
自分のウィークポイントであることを、
自分で認識して生きようと思う。

いまの日本の若ものは、読解力も思考力もなく、
でなく、
実は、そこそこある。
おとなの言うことも、メディアに潜むうそも、
そこそこよく読み取り、ちゃんとわかり、評価できる。
わたしたちも、ちゃんとある。
そういう前提にって、現状があるとしたら、
何が見えてくるだろうか?




『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2003-11-19-WED

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