YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson170 自分とは何か?


初対面の人に、「あなたは何者か?」
と訪ねられたら、あなたはなんと自分を説明するだろうか?

これが、すんなり出てくる人もいる。
答えに苦しむ人もいる。
説明がやたらに長くなる人もいる。

なかには、
この問いを突きつけられただけで「痛い」人もいる。
3年前の、私のように。

視聴率を操作した日テレのプロデューサー、41歳。
有栖川と名乗った男性、41歳。
有栖川を名乗った男の新婦となった女性、45歳。
彼女は「元女子アナ」等と自称するが、
私の検索した記事には、「無職」と書かれていた。

「無職」と言えば、

以前、新聞の投稿欄に
このような声が載っていた。

「私は、現役を引退したものです。
そこで、困るのは、自分をなんと説明するかです。
‘無職、65歳’と書けばよいのでしょうが、
それにはどうしても抵抗があります。
いままで、がんばってきた自分は何なんだろうと。
さりとて、‘元会社員’と書くのも変です。
人が、‘元部長’などと書いているのを見るのは
見苦しくさえあります。」

「自分とは何か?」

それと、
「それをどうやって人にわかってもらうか?」。

先にあげた、事件を起こした3人は、
「自分とは何か?」の固め方、
「それをどうやって人に認めてもらうか?」の
方向を誤った。
そういう過ちを、有栖川からとって、
ここでは仮に、「アリス」と呼ぼう。

だれにも、「アリス」が近づく瞬間がある。

先日も「履歴書」を書いていて思った。
こういうものに向かうと、
つい「かっこよく見せよう」という自分が出てくる。

たとえば、
彼女の前で、つい自分の成績をよく言おうとした、とか、
親の手前、仕事を、つい立派に語ろうとした、とか、
だれにも、「アリス」が忍び寄る瞬間がある。

しかし、同時に、
そういう自分の「執着」に気づき、
おもいっきり、自分を嫌悪する自分がいる。

「人にかっこよく見られたい自分」と、
「そのあさましさを嫌悪する自分」、
このふたつが、ちゃんと機能しているな、
と思うのはこういうときだ。

「自分で自分を嫌いになったらおしまいだ」と思うから、
正直な記述ができる。

ふと、3年前に書いた履歴書が出てきた。
会社を辞めて、間がないころに書いたものだ。
正直に書いてある、それだけに、
「自分とは何か?」、当時の「迷い」と「苦しみ」が
そのまんま出ていて苦笑いだ。

3年半前、自分の意志で会社を辞めた。
そのとき自分では意識しなかったけれど、同時にいったん、
「日本」という「屋台村」の外に出たかっこうになった。

「日本」という「屋台村」は、「組織」で構成されている。
「学校」という屋台。
「会社」という屋台。

ひとつの「屋台」から出る、それは、ただそれだけのはず。
ところが、どうしても、そのとき、いったん、
「屋台村」の外に出てしまうしくみになっている。

これが予想以上につらい。
だが、妙に澄み渡った感じでもある。

よく、外国に出た人が、
「外から見ると、日本のことがよくわかる、
どうして日本にいた時は、気づけなかったんだろう?」
というが、あんな感じで。
わたしも、外にでてしまったとき、
驚くほど澄んだ目で、「会社」というものや、
「日本の社会」のしくみのことが見えた。

それで。

たいていの人は、
また、屋台村に帰っていく。
フリーランスとして身を立てたり、
また、別の組織に入り直すなどして。

それで、そのときに、
屋台村で動きまわるには、
「わかりやすい身分証明」がいるんだな、
ということに気づく。

その人の中身がどうか? どんな人か?
それ以上に、
「その人がなにものかわかりやすいかどうか?」
に、人の目が行ってるんだな、といまさらのように気づく。

たとえば、知人のカメラマンは言う。
「自分は、なんでも撮れるカメラマンですと言っている人は
消えていく。‘アジアの写真だったらあの人’
というように認知されている人は残っていく。」と。

自分は何者か?

「端的に」証明でき、認知されることが重要なのだ。
「端的に」が求められてしまうのは、
だれも悪気があるのではなく、
「選ぶ側の疲れ」だと思う。

とにかく情報が多すぎるのだ。
たとえば、カメラマンだったら、ゴマンといるわけで、
カメラマンを一人選ぶのに、
一人一人、作品を観たり、
じっくりつきあって選ぶ余裕など、ほとんどない。

「選ぶ側の疲れ」がゆきすぎると、
「ブランド」とか、「視聴率」とか、
とにかく、「わかりやすいもの」で、
さっさと判断してしまいたくなる。

テレビ番組の良さを人に伝えるときに、
作り手なら、ほんとうはいっぱい言いたいことがあるだろう。
「この番組は、こんなことを目指してつくりました。」
「他にはない、こんな新しい工夫がされています。」

しかし、受け手には、
そんな「思い入れ」は、ときに、聞くのが億劫だ。
そこから、何かを汲み取っていく訓練もあまりしていなく、
「ああ、もう、わかりにくい説明はたくさんだ。
それは、数字はとれるのか?」
と一足飛びにそこへいってしまう。

ほんとうは、その前段階に何かがあって、
その先に、
「より多くの人に」という「数字」なのだろうけれど。
その前段階にじっくり向かいあっている余裕がない。

「ブランド」に、過剰に人が群がる現象も、
「セレブ」「セレブ」という言葉がもてはやされるのも、
この「選ぶ側の疲れ」と無縁ではない。

「アリス」は、こうした社会に出てきた。

で、そういう、
わかりやすいものに、群がってしまう社会だ、
ということは、認めなければいけない。
そういう社会にさせたのは、私たちだし。

わたしも、その中で、わかりやすいものに飛びつき、
得をしたり、失敗したり、をたくさんしてきた。
そして、そのとき、同時に、
「わかりにくいけど」「まだ形にならないけど」いいものを
たくさん振り落としてしまっている。

そこで、肝心なのは、
「わかりやすいIDがないと、
この屋台村の中は、生きにくい」と
認めた上で、どうするか?
だと思う。

つまり、そういう屋台村と自分は、
どう向き合っていくか、ということだ。

私が、会社を辞めて、ちょうど、
自分をアイデンティファイするものがなく、
また、これから将来どうしていくか?
自分の内面からも、
「自分が何者か」揺らいでいたとき、
とにかく、「自己紹介」をさせられるのがつらかった。

もごもごしていると、
相手は、私を「あやしがる」し、
そういう目で見られると、痛み、
「自分はそんなんじゃない。
これまでしっかり生きて働いてきたんだぞ」、
という自意識が過剰につきあげる。
その思い入れがよけい説明をわかりにくくさせ、
「わかってほしい」と、「わかってもらえない」に
足をからめとられて、
どうにも前に進めない時期があった。

そのころ、ある自己紹介で、
自分のことを堂々と
「パラサイト・シングルです。」
と名乗った女の人がいた。
その爽快なかっこよさを、いまでも覚えている。

彼女は、脚本を書いていて、
ちょうど出会ったとき、
それまで勤めていた会社をやめたところだった。
脚本家として食べていくことを念頭に、
これから仕事をどうするか、
親元でしばらく考える、そんな充電の時期だった。

彼女だって、夢も不安もあった。
でも、他人から見たら、そんな自分は、「何者か?」
「パラサイト・シングル」じゃないか、
と、彼女は、堂々と認め、自己紹介したのだ。

私たちは、ともだちになり、
彼女は、1年後、次の仕事を見つけ、家を出、
仕事と両立しながら、いま脚本を書きつづけている。

もういちど。

「私は、会社を辞めて、ちょうど、
自分をアイデンティファイするものがなく、
また、これから将来どうしていくか?
自分の内面からも、
自分が何者か揺らいでいた。」

考えれば、そのことは、悪いことではない。
いいことじゃないのかもしれないけれど、
でも、悪いことではない。

問題なのは、その状態を、
「はずかしい」と思ってしまった自分なのではないか?
と、いま、ふり返ってそう思う。
それは、どうしてなのか? と思う。

屋台村日本では、わかりやすいのがもてはやされる。

それを知ってどうするか?
自分がわかりにくいとき、どうするか?

あれから、3年半。
やってきた1つ1つの仕事が、とても短いが歴史になり、
私は、自分の説明にあのときほど、
苦悩することはなくなった。
履歴書も以前と比べれば、楽に書けるようになった。

でも、そういう自分は、ふと気がついてみると
屋台村のしくみに飲み込まれている。
わかりやすい「型」に急速に吸引されていくことがある。
「はっ」と気がついて、いかんいかん、
自分は何のために、会社を辞めたのか?
と自分に問い直す。

あの、はからずも、屋台村の外に出てしまったときの、
澄んだ目を濁らせてはいけないと思う。

「わかりやすい」のがもてはやされるからといって、
焦って、自分まで、わかりやすくしてしまう必要はない。
人間は、そんな「わかりやすい」肩書きひとつに
おさめられるほど、単純な存在ではない。
もっと多面的で、もっと動き、変わっていって、
可能性を秘めた存在だと思う。

「わかりやすい」のがそんなにいいかというと、
すでに、確固たる自分を確立し、
それが世間に認められ、
一発で自分を証明できる、いわゆる「有名人」でさえ、
「巨匠」みたいに、自分をわかりやすいところに
おさめてしまう印籠を、あえて拒み、
そういうものにたよらず、ふりまわされず、
あえて、「わかりにくい」ところに身を置いて、
じっくりと自分の内面を充実させ続けている人もいる。

私は、取材で出会った、
何人かの十代を追いつづけているが、
「大器」を予感させる人ほど、
わかりやすいところにさっさとまとまってしまおうとせず、
また、おさまりきれもせず、
未完のまま、模索を続けている。
不安は充分あるのだろうが、それよりも、
自由さを感じ、こちらの方が励まされる。

いまの世の中だから、
「わかりにくくていい」とは決して言わない。
言わないが、でも、
「わかりにくい」もののまえで
立ち止まったり、
自分が、わかりにくいところにいるからこそ、
見えるものを大切にしてほしいと思うのだ。

屋台村「ニッポン」からはずれても、
そこからしか見えない澄んだ世界がある。

自己とは何かが見えず、
わかりにくいがゆえに、誤解され、無視される、痛さに
めげないでほしい。

自分とは何か?

初対面の人に聞かれたら、
あなたはなんと説明しますか?




『あなたの話はなぜ「通じない」のか』
筑摩書房1400円




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

山田ズーニーさんへの激励や感想などは、
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2003-10-29-WED

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