YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson159 離れて暮らすあの人に


先日、名古屋に講演に行った帰り道、
来ていた高校3年生の女の子と、
でくわし、途中までいっしょに帰った。

名前は聞かなかったが、
桃のような印象の女の子だったので、
かりに、桃子さん、と呼ぼう。

桃子さんは、小学校のときからずっと、高3の今まで、
親元を離れ、寮生活をしているという。

桃子さんのお家は、山口県で、
幼少のころ、お父さんから聞いた大阪の学校に、
自分の意志で行きたいと思ったそうだ。

小1の女の子が、ひとり、

故郷を離れ、家族をはなれ、
身寄りのだれ一人いない大阪の寮で、
集団生活をはじめる。

それはどうだったか? と聞くと、
「寂しかった、ほんとうに寂しかった。」
と桃子さんは、実感をこめて言った。

帰省が許可されるのは、年に数えるほどだ。

同じ部屋で、常に
何人かの他人が寝起きをともにする。
分別がつく前の子どもどうしだから、
本当に、いろいろあったと思う。
中学、高校と進むに連れ、先輩後輩の
タテの規律をこなすのも大変だったという。

子どもだって、いや、子どもの方が、
他人の中では、気をつかい、遠慮し、緊張する。

甘えたいさかり、
学校で何があろうとすべてを受け入れてくれて、
緊張をとくことができる「ホーム」というものが、
ずっと、桃子さんは身近になかったのだな、と思った。
それでも、桃子さんは、
こども心にそれが面白いと、その生き方を選び続けた。

そして、いま、また、
桃子さんは、受験生になり、
ふるさとの山口でもなく、
12年なじんだ大阪でもなく、
地縁も身よりもまったくない名古屋の大学を、
自分の意志で選んだと言う。
名古屋の大学を受験するのは、
同級生の中で、桃子さん一人だそうだ。

桃子さんは、意志に忠実に生きるため、
人生の岐路で、独りを選び、その寂しさを引き受け、
逆に、寮仲間をはじめ、たくさんの人との縁や地縁を、
自ら切り拓いた。

いいぞ、桃子さん、がんばれ!

このまま桃子さんが名古屋に進学し、
また、意志に忠実に、別の土地で働くとしたら、
桃子さんが家族と生活をともにしたのは、
生まれてから小学校にあがる前までの、
たった6年間、ということになる。

6歳のときに家を出て、
再びそこを住みかとすることはない。

こんなふうに、
愛しあって、互いを想いあっていながらも、
事情があって離れてくらしている家族が実はたくさん
いるのだろうな。

もうずいぶん前、インドのカシミールを旅し、
ダル湖のボートハウスに泊まっていたときのことだ。

ボートハウスを経営しているのは、
本当にすてきなご家族だった。

私たちが「キャプテン」と呼んでいた、
頼りがいがある、お父さん。
カシミールカレーや、
くだもののコンポート、サラダなど
料理がとっても上手な、お母さん。

インドの美少女、という言葉がぴったりする
14歳くらいの娘さん。
成人したご長男と、
5歳くらいのクーリーという、かわいい坊や。

貧しくても愛あふれる、素敵なご一家!

家に招かれ、夕食を共にし、
私は何の疑いもなくそう思っていた。
かなりたってから知らされたのだ。
この人たちは、ぜんぜん、家族なんかではないのだと。

キャプテンと奥さんは、夫婦でなく、
子どもと大人は、親子でなく。
子どもと子どもは、兄弟でなく。

みな、貧しいから、家族と離れ
それぞれここに出稼ぎにきている。

奥さんは、家計を支えるため、家族を離れ、
ここに一人飯炊きにきている。

キャプテンも、家族と遠くはなれて、
家族のためにここで働いている。

じゃあ、クーリーは? 坊やはだれの子?

キャプテンの子でも、奥さんの子でもなく、
ひとり、ここにあずけられているのだ。
クーリーの両親もまた、経済的理由で、
子どもを連れては働けない。

私が学生のころ、教育実習で出会った中学校の先生も、
夫婦で教員をしており、
激務のため、幼い子をご実家に預けざるをえず、
お子さんに会えるのは、月1回だと言っていた。

ボートハウスの面々は、
それでもあかるい絵に描いたような家族に見える。
小さなクーリーは、
眠たくなると、だれにだっこをせがむでもなく、
ちらとも、ぐずることなく、
ひとり、ごろんとゴザに横向きになって、静かにする。
やがて、そのまま眠る。
そして、元気いっぱいの明るい朝を迎える。

こんなふうに、
愛しあって、互いを想いあっていながらも、
ボートハウスの人たちのように
お互いが、お互いのために働きながらも、
事情があって離れてくらしている家族は、
どのくらいいるのだろう?

実際は私が思うより、
もっともっとたくさんいるのだろうな。

それだけでなく。
「一生に、愛するのはこの人だけだ」と決めた者どうしが、
なにかの事情で一緒にはなれなかったり。
「これが、自分にとって一生の仕事だ」
と心底決めた仕事から、
どうしようもない事情で去らねばならなかったり。

だれが悪いわけでもなく、だれのせいでもなく、
お互いがお互いの与えられた人生を精一杯生きるために、
愛するものと離れて暮らさねばならず、
それでも、お互いを想いあっている人は、
口にはださなくても、いっぱいいるのだろう。

逆に、愛するもの同士、べたっと、ずう〜っと一緒、
という方が、この世界では、珍しいことなのかもしれない。

私も、家族と離れて働きだして、
もう何年だろう。
それでも、
家族を想うときの、この気持ちの鮮やかさは何だ?
しばらく会わなくても、みじんも薄れることなく、
家族を一日たりとも想わぬ日はなく、

朝起きて想い、
花火を見て、想い、
おいしいものを食べて、顔が浮かび、
夕暮れに想い、
眠りから目覚めて、ふと想う。

心にそういう存在がなかったら、
生きることは、なんとはりあいのないことだろう。
離れていても、その存在は力だ。

以前このコラムに、
アウト・オブ・サイト、アウト・オブ・マインド、
のことを書いた。
視界から消えた人間は、心からも消えていくと。
それは自然で心安らぐことだと。

しかし、愛するものを想うことだけは、
なにか記憶の体系がちがうのではないかと思う。
時間にも、距離にも、
いっこうに色あせることはなく、
想うたび鮮やかで、なまなましい。

「ほんとうに出会った者に別れはこない」
たしか、谷川俊太郎さんの言葉だった。

長期記憶とか、短期記憶とか、
人間の中にさまざまな記憶装置があるとしたら。
ぜったいあせない永遠記憶という装置が
どこかにあるのかもしれない。

長く一緒に暮らそうと、
ほんの短い間だろうと、
お互いが、おたがいでしかありえない有りようで、
心底通じ合ったときだけ、
お互いの永遠記憶装置が同時に作動するのかもな。

そういう人との別れはない。
ないんだと思ったら、今日もまた、働く元気がわいてきた。




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

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2003-08-06-WED
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