YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson154 読者という神からの自立


なんだか、仰々しいタイトルをつけてしまった、
だが、うそのない想いだ。

「山田さんほど読者のことを考えていた人はいない。」
とは、わたしが、
16年近く編集者として勤めた会社を辞めるとき、
同僚からいただいた言葉だった。

これが、過分なお世辞であったにしろ、
宗教を持たない私にとって、
「読者」は、長い間、神さまに最も近い存在だった。

友だちに、敬虔なクリスチャンがいて、
彼女の話す「神」が、私はなかなかイメージできない。
でも、なんとか彼女をわかりたくて、
邪道なのだろうが、私は、知らず知らず
「読者」と置き換えて考えるようになっていた。

たとえば、彼女が、「天に宝を積む」と言えば、
わたしは、自分の経験を
いつか「読者に還元する」と置き換えると実感がわく。

人が見ていないところでも、
わたしが悪事に走らないのは、いつからか、
「もしも、ここに読者がいたとして、見ていたとしたら、
 私はこれをやるか?」
というのが、ひとつの行動規範になっていたからだ。
読者に恥じないように、と思っていた結果、
仰いで天に、伏して地に恥じない生活を送ってこれた。

だから、先週のコラムで、
たとえ出口のない批判メールであったとしても、
読者の方がくださったものを「つまらない」と
言うことは、非常に勇気がいった。

ほぼ日編集部へのメールに原稿を添付してからも
送信ボタンを押すかどうか、まだ迷った。

最近は、とんと使わない言葉だが、
久々に「ばちがあたるのではないか」という
子どものころ恐れた感覚がよみがえってきた。

たぶん、ずっと親の言いなりになってきた人が、
はじめて親の意に反することをするとか、
ずっと先生はまちがわないと思ってきた小学生が、
はじめて、黒板に先生の間違いを見つけてしまって
おそるおそる先生に告げるとき、
こんな感覚におそわれるのだろう。

私は、編集の中でも、
もっとも校閲の厳しい教育畑に育った。
複数の目から原稿を吟味して、
予め問題の起きそうなところを想定したり、
そこに予防線を張ったり、
表現をやわらげたりすることは、よく訓練されている。

だから前回の原稿も、批判を避ける手立てはあった。

例えば、主題になっている。
「批判と優しさ」をどのように表現するか?

もっともとんがった言い方は、
「批判なんてもういらない! 優しさだけが人を育てる」
だ。これだと批判はいくらでもできる。
      ↓
少し、柔らかい表現をするとこうなる。
「批判よりも、優しさの方が人を育てる」
      ↓
そして、批判がこないことだけを考えると、こうなる。
「人が育つのには優しさが大事。
 でも批判ももちろん大事だ。」

読み比べるとわかるように、
どんどん予防線を張り、表現をやわらげていくと。
「あれもいいけど、これもいい、結局何でもいい」
という表現になってくる。
でも、そんなこと、わざわざ書く意味があるの? 
わざわざ読む意味があるの? ということになってしまう。

表現は、自分の「決め」を入れるほど意味が出る代わりに
あたりさわりが出てくる。
そして、
「決め」を入れずに逃げることはいくらでもできるが、
あたりさわりがなくなる代わりに、
書く意味、読む意味を失ってしまう。

この無段階にある表現の中で、
今の自分にうそのない、そしてささやかでも意味のある
発信をしていかなければならない。

わたしは、最終的に、
「批判は人を育てないのではないか?
 優しさこそ、いま、
 人を生かすのに有効ではないだろうか?」
という表現を選んだ。

「でも、いい批判もあるよ」
というのはもちろんわかっているし、
「目の前で人を殺していてもそれでも批判しないのか」
とか、
「私はいいんですが、判断の弱い人たちが
 批判を軽視するようになったら困るから…」とか、
長い編集生活のサガなのか、書くそばから、
このような突っ込みが頭に予想されてしまう。

3年前の私なら、そこに細かく註釈を入れただろう。
ところが、前回の私はちがっていた。

それこそ、読者を赤ちゃんあつかいすることではないか?
それこそ、読者に対して失礼ではないか?

「私がわかっている以上に読者は、わかっている。」

私は、いつまで八方まるくおさめるような、
優等生の発言をするつもりか?
些細な欠点を突いて、足を引っ張ろうとする読者と、
大意を読み取り、真意を汲み取ろうとし、
議論を前に前に進めようとしている読者と、
どっちを大事にするんだ?
いいかげんに、「あれもいいこれもいい」から
一歩踏み出さなければいけないな、と思った。

この3年間を振り返って、
何度か、この原稿をこのまま読者に投げかけてよいものか、
決めかねるものがあった。
そういうときは、編集部の木村さんと話し合った。
いつも、最後は
「読者を信じて」このまま更新しようということで
一致し、案をひっこめることはなかった。
ただ、過ぎてみれば、人から見れば、ささやかな冒険も、
そのときの自分には、本当に気力、体力を要するので、
毎回はできないなあ、と思う。

その度に、予想外の反応で、
読者の問題意識の高さ、理解の深さ、経験の多用さに
感動した。

たぶん、その一つ一つの驚きが、
三年間で、何かの飽和状態に達し、
読者との信頼関係ができてたんだと思う。
最終的に先週の原稿を掲載する勇気をくれたのは、
やはり読者だった。

だから、先週の原稿は本当に批判覚悟で送った。

ところが通常の5〜6倍のメールに、
重箱の隅をつつくような批判メールは1通もなく、
テーマの「自分が育つ」ことについて、
批判がどのように作用してきたか?
批判に自分はどのように対峙しているか?
優しさとは何か? 批判とは何か?
真摯な考えと体験が綴られていた。

またしても予想を大きくうわまわる形で、
「ほぼ日」の読者力を思い知らされることになった。
この内容については、次週以降、
あらためて採り上げたいと思っている。

その中に、こんなおたよりがあった。

<選球眼>

「Lesson153 優しさの芽生え」を拝見しまして
私の頭に浮かんだのは、「選球眼」という言葉でした。

野球において、打ち頃の球、ボール球を見分ける眼、です。

ピッチャーが様々なコースに投球してくるように、
現実社会でも、自分が起こした何らかのアクションに対して、
周りの投げつけてくる反応は様々です。

賞賛、関心、反発、異論・・・・・もちろん、
その中には批判も含まれています。

そういった様々な反応の中で、
自分のストライクゾーン、もしくは得意なコースに
ビシっと入ってくる球に対して、
こちらも反応をすれば良いのですが、
実際、これがなかなか難しいものです。

ズーニーさんのような、
日々表現に携わっている方の眼から見ると、
きわどいコースも見分けが付いているので、
「ああ、あの球は打たなくて良かった。」と
感じる事が多いと思います。

一方、私のような素人の目から見ると、
批判、という球は、
かなりきわどいコースです。
「この球を打って良いものかどうか、
 打ったらファウルになってしまうかも、
 でも、見逃したらストライク・・・。」
で、結局、建設的な意見だと思って打ちに行ったら、
ただ単に自分の首を絞めただけであったり・・・。
実際、私も何度かアウトになった覚えがあります。

「批判が人を育てない」
・・・私も、確かにその通りだと思います。
自分にとってのボール球に手を出す事は、
自分からアウトカウントを
増やしているようなものだからです。

ただ、批判がまったく必要でないとは思いません。
もし、私に対するすべての投手が、
ど真ん中ばかり放ってきていたら、
私は自分のストライクゾーンをドンドン狭めていって、
いつしかど真ん中しか打てなくなってしまうでしょう。

批判は、先ほども言ったように、
きわどいコースに飛んで来がちです。
一見ストライクゾーンなのですが、
それに手を出しても、全く得にはなりません。
しかし、投手がカウントを整えるためにも、
また、長い目で見ると、バッターのストライクゾーンを
狭めないためにも必要なのだと思います。

重要なのは、「これは打ったらいけない」
「打つ必要がない」ボール球をしっかり見極め、
平常心で見送る事の出来る選球眼を養う事なのでは
無いでしょうか。

あまりまとまっていない文章で申し訳ありませんでした。

ズーニーさんの益々のご活躍を祈るだけではなく、
読む事で応援させていただきます。

2003.6.26 MAEDA

………………………………………………………………………

こうした、微妙なニュアンスのことを、
適切なたとえを用いて、少しもえらぶることなく
なんら押し付けることもなく、わかりやすく
メールで人に伝えることができるのは、
すばらしいと思う。

批判を覚悟していたのと、
ばちあたりなことを書いてしまったか、という思いで、
こわばりながらメールを読んでいた私は、
このメールを読んで、ほっと肩の力が抜けた。
そのとき、私の中に、どこからか、
読者のこんな声が聞こえてくるような気がした。

「ズーニーさん、
 俺らのことを真面目に考えてくれるのは
 うれしいんだけど、
 いちいちそんなに真剣に突っ込まれて、
 いちいち悩まれても、俺らの方がしんどいよ。」

「ズーニーさん、僕らだって、まちがうことはあるんだよ。
 ズーニーさんが、そんなだと、
 僕らも、おちおち、ものが言えないよ。」

そのとき、やっと読者から自立できたような気がした。
読者を神のように思っていた私は、
どこかで、やっぱり、読者に依存していたのだと思う。

こういうことは、よく言われるし、
自分も何度か口にしたけれど、身体の感覚として、
ほんとうに、このとき、ふわっ、と自由になるのを感じた。
今回いただいたメールが優しかったから、
自由になれたのだと思う。

ほぼ日の読者は、もう5歳で、
わたしも、このコラムで3歳になっている。
それぞれのポジションで日々何かをつかみ、
シェアしあい、磨きあっていた。

やっぱり三年つづけるということは、
すごいことだなあ、と思った。
はじめて、すごい自由で対等な関係に、
読者とこれからなれるんじゃないか。

これから面白いことになってきたなあ、という気がする。

本当に気づかせてくれてありがとう、というか、
やっぱり読者っていいなあ、というか、
神さまではないけれど、
私は、やっぱりあなたが大好きです。

どうもありがとう。



『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円


内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)

2003-07-02-WED

YAMADA
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