YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson138 いま、ここにいないあなたへ
     ――「1人称がいない」シリーズ8回



「1人称がいない」文章を読んだとき、つまり、
「あなたがあなたとして、そこにいない」
と感じるとき、わきあがってくる
苦しい、苛立つような感覚は、なんだろう?

去年の暮れ、わたしは、たくさんの高校生の文章を読んだ。

とても素晴らしい文章を書く子たちもいたというのに、
私が、想いの中で一緒に年越ししたのは、
「1人称がいない」文章を書く子たちだった。

年が明けても、その「ざらつき」は消えなかった。

その中で、モー娘。新メンバー最終選考番組に出くわした。
画面では、3人の女の子が、
インストラクターの呼びかけに
何も反応できなくなっている。
インストラクターが、ここには、「人がいない」と言った。

番組を見ていた読者の方々からも、
「ほんとうにどうしたのかくぎ付けになったように、
 画面から目が離せなくなっていた」
「見ていられなくて、チャンネルをまわした」
と、メールをたくさんいただいた。

「ざらつく」のはよくないと、
最初、追い払うことばかり考えた。

でも、自分からわきあがってくる気持ちを、
「なぜか?」と問う前に、
わるいと決めつけることこそよくない。
もしかしたら、「人を生かす」
教育のシーンには必要なものかもしれない。

私は、「ざらつき」の正体をみようと思った。

そこで生まれた「1人称がいない」シリーズでは、
コラム連載初の体験をいくつかした。

連載始まって以来の数の読者メール。

ここには、高校生もいる。
針灸師、デザイナー、経営者……と、
さまざまな社会人もいる。

学問の現場から、問題を体系立てて見て、
発信してくれる大学生や院生もいる。

人を教えている人も、教えられている人もいる。

日本にいる人、
海外から帰ってきた人、
いま海外にいる人もいる。

教室から、仕事の現場から、街から、
「人が消える」とき、
実際のところ、なにが、どうなっているのか?
現場の、からだを通った考えを寄せてくれた。

これこそ、わたしが、
インターネットに想い描いた夢だと思った。

さまざまな立場の人が、1つのテーマに共鳴しあい、
知恵や体験を出し合い、
乱反射して、さらに考えが深まっていく。
いまの、現場の、からだを通った考えが、
同時に、即時に、多様に、あつまるからこそできる
テーマへのアプローチ。
そういうインタラクションを起こすことこそ、
わたしが、ネットでやりたかったことだ。

ネットにコラムを書いて3年、
もう、ネットへの幻想などどこにもない。
だからこそ、逆に、いま、
インターネットの夢が追えると思っている。

生まれてはじめて、インターネットの門をくぐったとき、
生まれてはじめて、電子メールを書いたとき、
そこに、自分がこめた期待は、なんだったろう?

そのときの自分の想いだけを、
忘れず、ひとつずつ実現していこうと思う。

そのひとつが、このシリーズで叶った。

これまで
「どうか、メールをください」のひと言が言えなかった。
それは、こぶし一つ分の勇気だが、でなかった。

オーディションの女の子をみて、思ったのだ。
「なぜ、つかみにいかない!」
その言葉は、そのまま、わたしに向かっていた。
自分は、インターネットにこういう場を与えられ、
毎週、これだけの読み手に逢わせてもらっている。
それなのに、自分は、
これくらいのインタラクションしかつくれないのか?

そして、こぶし一つ分、手を突き出してみたとき、
こたえてくれる「あなた」が、いた。

このシリーズで、自らつかみにいくという感覚や、
ネットの歓びの雛型を、私自身がいちばん教えられた。

そこで、わたしは考えた。

いったいだれとの付き合いが、
わたしを突き動かし、
現実の中で私を変えたか?

昨年暮れから、ずっとともにいて
私を導いたのは、
「1人称がいない」文章を書く子たちであり、
現実に、このシリーズへと突き動かしたのは、
モーニング娘。オーディションの3人の女の子だった。

その間、素晴らしい人の、素晴らしい言葉を聞いて、
体から力があふれるような瞬間があった。
言葉を、ノートにも書きとめたが、
どうしてか、それは時間とともに体の外へ消え去っていた。

1人称を失った若者から受ける「ざらつき」こそが、
いつまでも体から引かず、わたしを育てた。

つい先日、こんなことがあった。

原稿が書けない。
それは私が、もっとも得意とする小論文の原稿だった。
16年も、半端でなく取り組んできた分野だから、
これだけは、着実にできる。

ところが、書けない。

書けないのだ。
こんなことが、あろうはずは、
と書いては消し、書いては消し、
1日たち、2日たち、3日たち…、
背中と目がやけるように痛くなった。

フリーランスになってから、
健康管理にはひどく気をつかっていた。
だから、ここまでからだを酷使したということは、
よほど「われを失って」いたのだ。

わたしは、「ばか」になってきたんだろうか?
いま、最も働き盛りのはずが、
個人差で、がくっ、と
「脳の老化」がはじまったんだろうか?

途中なんども、われ、と我が頭を疑った。

時間が来て、できた原稿は、
いちばん好意的に言っても、
「小さな完成品でなく、大きな未完成品」という感じ。
そう思おうとしても、自尊心は、ズタボロだった。

その日は、ラフアップで、
ほんとうの原稿をあげるのは、
まだ2週間先だったからよかったものの、
本番の締め切りで、そんなものをあげたら、
少なくとも私は、私を許さなかったろう。
でも、原稿を送ろうとした瞬間、
やっとあることに気がついた。

私がしていたのは、原稿書きじゃない。

そう、わたしがしていたのは原稿書きではなかった。
「商品開発」だ。
企業で編集をしていたとき、何ヶ月もかけて、
社会とお客さんを読み、コンセプトをつくり、
それを形にする方法を考え、企画を立て、
それから先生をさがして原稿を書いていただいた。
その何ヶ月分を、たった一人、数日でやろうとしていた。

まったく新しいものをつくろうとしていたのだ。

このところ、高校と大学、大学生と企業、そして社会、と
つなぐ仕事の依頼がおおく、
じぶんなりに、視野がひろがっていたんだろう。

そういう目で原稿をみると、
今までなかったまったく新しい発想が、
2つだけ生まれていた。

新しいものをつくるとき、
かならず、空中分解のような、
自分が不安定な状態を通過する。
なぜなら、いままでのやり方、経験が、
まったく生きない領域に、自分は「いる」からだ。
当然、ゆきづまりになり、どんづまりになる。
そこでは、たった1メートルの距離が歩けず、
自分は、自分かと疑い、
なにをやっているか、
どこにいるのかもわからなくなってくる。

ゆきづまらなかったら、
いままでの延長線上でものをつくっているということだし、
まったく新しい領域に足を踏み入れたいなら、
かならず、ゆきづまらなければならない。
これはあたりまえのことだ。

「限界突破」と人は、ひと口に言うが、
自分の「限界」がくることと、
それを「突破」することの間には、
ながい、長い、空中分解期間がある。

「よく逃げなかったなあ。」

「1人称がいない」文章を書いた子たちに、
わたしは、あらためて、そう思った。
この子たちにとって、20枚の文章を書くことは、
生まれてはじめての未体験ゾーンだった。

この子たちは、
マスコミ受け売りパッチワークで済ます「要領」はない。
インターネットから丸写しするほど「悪」ではない。
でも、書かない、途中で止める、ということはしなかった。
文章には、書き手の根っこにある想い、
つまり「根本思想」がつよくあらわれる。

彼らの根本思想は、いまはっきりと、
「不自由」なのだ、と私にはわかる。

不便と不幸と、「不自由」は少しずつ違う。

ヘレンケラーや乙武くんに、私が感じるのは「自由」だ。
彼らは、手足のサイズや、聴覚・視覚の障碍は、
自分を表現し人と通じ合うのに、
なんの障害にもならないのだ、ということを教えてくれる。

でも、自分を、まとまりをもって語れないとき、
想いを外にだせないとき、
人は、「不自由」だと思う。

「1人称がいない」文章を書いているとき、
本人はさぞ、つまらなかったろう。苦しかったろう。
自分の言いたいことはこれではない。
この紙の上で、自分は自分になれない。
ここでは、たった1メートルの距離さえ歩けない。

その苦悩が読む人までを不自由にする。

文は人なり、というが、
かならず、書いた本人の根っこの思いが伝わってくる。
書いて、伝えてくれてありがとう。
最後まで、書いてくれたからこそ、
わたしはその「不自由」というメッセージを
受け取ることができた。
そのメッセージは、
わたしに、もう一度文章指導への意志を固めさせた。

なにが「限界」か、
なにが「無理め」の状況か、
人によってレベルはずいぶん違う。
そして、レベルは関係ないのだと思う。

たった1枚を書くのが恐い、という人も、
これまで何万枚も書いてきて、賞ももらって、
この次、まったくあたらしいものを書くのが恐い、
という人も、1歩踏み出して、
迎える、空中分解の感覚は同じだからだ。

1歩踏み出して、進むに進めず、引くに引けず、
という人は、無意識にも、
「不自由」という強いメッセージを発している。
自己表現ができないというときほど、
逆に、自己を言葉で語りたい、
表現したいという無言のメッセージを発している。

そのメッセージをうけとれば、
だれもがそこにいた自分を思い出す。
自分もかつて、そこにいた。
そこで、自分を疑うような、もっとも醜い姿を見た。
自分の潜在力を生かしつづける生き方を選んだ人にとって、
それは決して過ぎ去った問題にはならない。

だから、限界状態にある人に、人はざらつくのだ。

「教育効果」ということを言えば、
どんな場面のどんな人であろうと、限界状態にある
ただそれだけで、
人をかきたてる、強いメッセージを発している。

いま、「ここ」にいないあなたへ。

あなたは、後退しているのではない。
あなたは、荒廃しているのではない。

あなたは解体して、「そこ」にいる。

体内の細胞をばらばらにして宙に浮かせ、
前後不覚になって、そこにいる。

「そこ」は未来だ。

自分で自分を信じてやれなくなってもいい、
ばらばらのままでいいから、
そこまでいこう。




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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2003-03-12-WED

YAMADA
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