YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson134 1人称がいない(4)


今回もまず、読者のメール、
こんな「現場の声」から、おききください。


<からだを消し去る>

私は都内の鍼灸師です。

「1人称がいない」の中の、
自分を消し去る、という話を読んで
ちょっと感じたことをメールします。

彼らは、自分を、もしくは周りの人間を
消し去るのと同様に
「自分の身体をも」消しているんじゃないかな、
と思いました。
別の言い方をしてみると、

まるで五感と脳だけで存在しているというか。

私は鍼灸師をしていますので、
時々自分の身体に対する感覚の薄い患者さんと
出会っています。

端から見ると、
思いっきり体が斜めになっているんだけど、
本人はちゃんとまっすぐ立っていると思っている。


「これで今まで変だと思わなかったの?」と聞いても、
「いいえ全然、何か変ですか?」
と聞き返されたりもする。

または、電車のシートにお尻ではなく、
背中で座って足を投げ出している男の子なんてのも、
もしかしたら体のフィードバックに対して
鈍かったりするのかもしれません。

身体は様々なサインを出しているんだけど、
脳の方でそのサインをカットしてしまって
鈍感になっている人って、
老若男女問わず、
結構いるんじゃないかなって気がします。

そしてそのことに対する対処法として私が考えるのは、
次のようなものです。
それは、自分の身体を思い出してみること。

すなわち、例えば運動することで
体と脳とのリンクを
太くすることなんじゃないかなあと思います。

(鍼灸師harryさんからのメール)

………………………………………………………………………

あともう1通、高校生から届いた、
やはり、「現場の声」をおききください。


<教室の風景>

僕は岡山の高校に通っている者です。

僕もクラスの中で「ひとがいない」状態を感じます。

例えば、クラスの1人が風邪で欠席したとき、
中学の頃は授業が始まる前に
「あれ? ○○が来ない……、何かあったのかな?」
とすぐに気が付いたのですが、
高校では、授業の始めに
教師が出欠を取るときに初めて分かるんです。
「あ、この人来てないんだ。」って。
ひとつ席が空いているのに違和感がないんです。

中学校時代は、クラスの全員が見える範囲に
一人一人にそれぞれの居場所があって、
その居場所から主が出入りすると
クラスの風景が少し変わって見えました。

でも今は、居場所が見える範囲に無い様に思えます。
幾つかのグループに分かれて壁をつくり、
特定の相手としか関わらない様な…。
そんな感じです。

つまり
「いてもいなくても同じ」
「どうでもいい」
と思っているのです。

だからそんな人は背景とおんなじ。
喋り声もBGM扱い。
かなり勿体無い事をしている気がしてなりません。
 
(茂くんからのメール)

………………………………………………………………………

1人称がいない文章を書く子は、
関係をつかむ力が育っていないのではないか、
と、先週私は、書きました。

関係をつかむ、関係づける、
という力は、ただそれだけのようですが、
一事が万事、さまざまなところに影響します。

関係をとらえる力が、
ほんの1ミリズレている、とか、
歳のわりにちょっとだけ未発達、という場合、
その1ミリ、そのちょっとが、
いろいろな場面に関わってきます。

人が、ものを書くとき、じつは、
無意識に、かなり高度な、関係づけを
やってのけています。

書くことがうっとうしい理由のひとつはここにあります。

はじめての人にメールを書くとき、
ひどく骨が折れるのは、
未知の相手にとって、このメールは何か?
自分は何者か? 相手は何者か?
相手との関係を発見しているからです。
接点の取り方、
距離の取り方、すべてトライアルです。

たとえば、
入試で小論文を書く、という場面でも、
人との関係をつかむことが必要です。

「え? 紙に向かって1人で小論文を書くだけでしょ、
 どこに人間関係があるの?」

と言われそうですが、
登場人物は、たいてい3人以上はいます。

自分、
資料文の筆者、
文章の読み手である大学の採点官

資料として出された文章を読みとった上で、
自分の考えを書く、という入試スタイルが多いのですが。

たとえば、資料文に、「いまどきの若者は……」
など、痛烈な批判が書いてあった場合、
腹を立てて、本気で筆者とケンカをはじめる子がいます。

しかし、ほんとうの読み手は、「大学の採点官」なのです。

それがもし、公正さや論理性を求める法学部の入試なら、
感情的になって筆者とケンカしている場合ではありません。
ちゃんと読み手の大学の方を向いて、
自分の筋道立てた考えを伝えなくてはなりません。

また、だれかの意見を「引用」して書けば、
その「だれかが言った意見」と自分の考えの区別や、
関係もはっきりさせる必要があります。

そうこうしているうちに、引用にのっとられたり、
資料文のなぞりになってしまったり、
という人も出てきます。

それ以前に、読み手はだれか、
なんのために小論文を書いているか、
自分が言いたいことは何か、未整理なまま、
虚空にむけてつぶやくように文章を書いて帰る子もいます。

一方、文章がずば抜けてよくて、受かった子に話を聞くと、
関係をつかむ能力のすごさに驚きます。

例えば、タカコさんの入試の資料文は、
A.B.Cの3人の鼎談でした。
タカコさんは、すばやくA.B.Cの筆者それぞれの意見を
正確に読みとります。
そして、3者の関係を整理します。

「3人のうち、
 BとCの立場は同じだ。
 Aはこの2人と対立している。
 つまり2対1だ」

そして、会場にいるたくさんの受験生と
自分との関係を考えます。

「2対1だから、ほとんどの受験生は、
 B,Cに賛成する意見を書くだろう。
 Aにだけ反論すればいいからだ。
 でも、だからこそ、私は、Aの立場で書いてみよう」
と、自分の立脚点を定めます。

資料文にでてくるAさん、Bさん、Cさんと自分の関係、
読み手である大学と、書き手である自分の関係、
他の受験生と自分の関係を、
限られた時間内に、整理して、つかんで
自分の立場をつかんでいるのです。

それは合格するだろう、と私は思いました。

では、同じ高校生でも、
関係把握に非常にすぐれた子と、
未発達の子と、どこが、ちがうのでしょう?

驚くのは、タカコさんをはじめ、
関係把握にすぐれた人が、
基礎をコツコツ、コツコツ積み上げた、
努力の人だということです。

素晴らしい関係づけの能力を発揮する子も、
特別なことはやっていないのです。
「読む→考える→書く」
これを第三者から見て批評してもらって、また、
「読む→考える→書く」
これだけです。
しかし、数多く、自分なりに
工夫しながら続け、積み上げている。

関係把握にすぐれた子は、
まず、読む力がすごくあるのに驚きます。
人の意見を、聞く・読む・理解する、
というのは、外界との接触の第一歩のような気がします。

そして、絶対に、長い難しい複雑な話を
一発でポン!と読める、聞けるようにはなりません。

まず、易しいものから難しいものへ、
単純なものから複雑なものへ、
具体的なものから抽象度の高いものへ、
とコツコツ積み上げた結果、長い文章を、
すばやく、正しく読めるようになっています。

こうした積み上げがあるからこそ、
未知の大人に出会っても、
その発言を正しく、核心をはずさず聞けるのです。

理解・読解が深く、正しければ、
まったく未知の状況に置かれても、
自分をとりまく人間が言っていることは理解できます。
正確な理解をつみあげれば、
まわりは、しだいに見えてきます。

次に、考える。
理解した相手の意見に対して、
自分の違和感、反発、連想したことなどを
洗い出すことからはじまって、
徐々に、自分に問いかけ、
相手とは、ちがう、自分の考えを引き出していきます。
これも、単純な思いつきレベルから、
しだいに、深い、複雑なことも、
考えられるようになります。

そして、それを書いて、表現し、
評価や反応を受けることで、
少しづつ、自分の想いと言葉のブレをなくし、
相手との関係のズレ、
自分の立場を修正します。
徐々に、自分の考えを伝える術を身につけていきます。

勉強の席で、
「読む→考える→書く」をあらたまってやるか、
日常生活の中で、
「聞く→考える→話す」を自然にやるか、
どちらにしても、
コツコツやりつづける生活があって、
はじめて、人は、自分の身近なものから、
しだいに自分と距離のある人や問題に対しても、
「リンク」をはれるようになっていきます。

そして、未知の相手や、未知の状況の中で、
「理解する→考える→表現する」術を、
試し、磨き、工夫する機会は、
学校でも、日常生活でも、だれにでもおとずれています。

年のわりに関係把握が弱い人は、
なんとなくその機会をのがしてきてしまったのではないか、
やった人と、なんとなくやらずにきてしまった人の差、
ではないかと、今、私は考えています。

この問題、来週もさらに考えていきますが、
最後に、以前紹介した人類学をまなぶ学生の
「はるみ」さんのメールを紹介しておきます。
あなたは、どう考えますか?


<城>

現在の都市は「隠れる」ことができます。
自分の「身体」がその空間に存在しても、
地下鉄でお化粧をしている人のように、

「自己」は「いないことにする」ことができます。

それはコミュニケーションの
「場」を形成しないことによってです。
(会話しない、視線をあわせないなど。)

また、逆に、自分のしたいコミュニケーションは、
Emailや携帯などで、身体を移動しなくても、
とりたい時にとれます。

たとえば、一人で喫茶店にいても寂しくない、
友達と携帯でつながっているから。
Emailも、自分の好きな時に出し、
返事をしたくなければ無視できる。
面と向かってはいえないことも、
メイルだったらいえることもありますよね。
うそもつけるかもしれない。
理想の人間関係を築けるかもしれない。

つまり、「自己」というものを、
自分の身体的、社会的存在から一時的に切り離し、
「自分の好きな居場所をつくって存在させることができる」、
のだと思います。

自己の存在に悩む若者が、
一番逃げ込みやすい自分の「城」
(例えば、自分を説明しなくても、
 完全に受け入れてくれる、
 ごく親しい気楽な人間関係など。
 それはひとつとは限りません)
をつくり、そこにちゃっちゃと
自己を形成してしまおうとすることは、
簡単だけれど危険だとは、彼らは気付いていません。

だからこそ、自分のユートピアに住んでいる若者達は、
「私は〜」という言葉を多用して、
自分の「城」で羽をのばします。
でも自分のつくり出したお城以外での「私」という言葉を、
彼等は使えないのです。

この問題の根本は、子供達にだけあるわけでもないし、
emailや携帯、テレビなどの
コミュニケーションツールの問題でもない、と思います。
少し断定的にいってしまうと、
人々が「自分が望む自分」と「現在の自分」というものに、
大きなギャップを抱いているからではないか、と思います。





『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
bk1http://www.bk1.co.jp/
PHPショップhttp://www.php.co.jp/shop/archive03.html

2003-02-05-WED

YAMADA
戻る