YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

1人称がいない「暖簾に腕押し、糠に釘」。
これが一番疲れます。

かつて「仕込んでくれ」と
上司から依頼されたヤツがこれでした。
入社2年目、なのにまったく戦力になっていない。
新人プログラマのレベルにも届いていない。
おとなしい性格、でも「とりえ」はそれだけ。

まずビックリしたのがメモを取ろうとしない事。
マンツーマンなのに質問をしない事。
そして、次の日にはすべて(!)忘れている。
やる気があるのか?、それが見えてこない。
この仕事が向いてないならさっさと辞めたら?、辞めない。

この状況が2ヶ月も続くと僕がストレスを感じるようになり
僕の一生懸命さ(?)が
指導する声をしだいに大きくしていき、
しまいに周囲の人は
僕が「怒鳴ってる」か「苛めてる」と
思うようになってしまった。

いまだに、どうすればよかったのか僕にはわかりません。

(読者 ケビンさんからのメール)



ハンドルネーム・鬼瓦 権助と申します。
僕は、3年前に人間関係のストレスから退職をしました。

「フリーズする子供」を読んで、
会社に勤めていた時の自分と、
とても似ていると思いました。
僕が上司や先輩から、よく言われたセリフは、

「鬼瓦君、耳から煙が出てるよ。ショートしちゃった?」
「鬼瓦君、黙るのはズルイよ」
「鬼瓦君、何で訊かないの?」
「鬼瓦君、全然違うよ!」の4つでした。

また、中学三年生の彼は、
それまでのボクの質問がまるでなかったかのように
消しゴムをいじりだしたり、つめをいじりだしたり
という行動を取ったそうですが、
僕の場合は、とにかく相手が困っている様子なので謝りました。

しかし、謝っているにも関わらず
相手は落胆の表情をみせるのです。

落胆の理由は、今になってやっと分かります。
上司や先輩は、僕の中に上司や先輩が「いる」のだけど
「いないことを」感じたのでしょう。
そこに、冗談を一言・・・。
せめて、皮肉や弱音でも良いのです。
少しでも「本音」を付け加えれれば、
そこからコミュニケーションがとれたのでしょうが・・・。

今、僕は、「自分を大切に出来ない人間は、人も大切にできない」
と思っています。

他人とコミュニケーションをとっていて、
自分を大切に思うと、他人からの攻撃を避けようとします。
攻撃を受けると心が痛いですからね。
その「攻撃を受けて痛い部分」が「他人にもある」と思うと、
他人も大切に思うことが出来ると思うのです。

逆に、「自分を大切にすること」を知らない場合、
「他人の痛さ」に鈍感です。
「自分の大切な部分」がはっきりしないので、
相手の「痛みの部分」も、判断し辛いのです。
また、他人が「居て」も「居ないもの」とすることができます。
大切にするべき自分も「居ない」からです。

更に、「自分を大切にすること」が出来ないと、
他人の態度に対して上手く反応ができません。
「自分の大切な部分」の「守備範囲」があいまいだと
相手の態度に含まれるものを計れないからです。

結果、悪意であれ、善意であれ、
無条件に受け入れてしまいます。もしくは、無条件で拒絶します。

彼の「フリーズ」は、
相手の態度の種類が判断できないことへの
ジレンマだと思います。
固まる感じ、良くわかります。

(読者 鬼瓦権助さんからのメール)



Lesson133 1人称がいない(3)

こんにちは、ズーニーです。
先週のコラムには、ものすごくたくさんの、
読者の方々の体験や想い、思索が寄せられました。

なんといっていいか、
ほんとうにありがとうございます。

衆知を集める、ということの力を、思い知りました。

メールには、
相手の1人称不在の感じに苛立ち悲しむ立場、
鬼瓦さんのように、自分がうまく出せず苦しむ立場、
仕事や学問経験を通じて、このジレンマを超えようとする立場、

どの立場にも切実さがあり、
これらをシャッフルして、シャッフルして、
ひとつに溶け合わせられたら、
なにも悲しいことはないのに、
複雑で、あたたかく、ひろがる世界であるのに。

この世界から、小さな断片としてちぎれ、
一人でものを考えるのは、なんと痛く、
なんと尊いことなのだろうと想いました。

いただいたメールを、いったいどう生かし、
どう読者の方々に返していったらいいのだろう。

あまりに様々なメールを、
「あんな見方もある」「こんな見方も」と、
総花的にあつかうのも、
公約数・公倍数をだすのも、
なにか自分を安全なところに置いていて
「違うな」と思います。

いただいたメールは、
このコラムの先の展開で、
直接・間接的に活かしていくことは、
言うまでもないのですが、

まず、いまの私の考えを恐れず出してみようと思います。

企業に、文章コミュニケーションの講師でいくと、
意外に喜ばれるのが、
「私たちは…」「田中さんは…」のように、
できるだけ主語を人間にして書く技術です。とりわけ、

1人称、「私は…」で文章を書く

というアドバイスが大好評です。
社会人の書く文章には、1人称「私」がほとんど出てきません。
結果、こんなあやしい「受動態」が出現するのです。

「通常、点検は2人体制とされています。
 それが、実行されなかったため、
 起こったミスと見られます。」


え? だれがミスを起こしたの? 
「見られます」って、あるけど、見ているのはだれ?

そこで、主語を人間にして書くとこうなります。

「土木2班の私たちは、
 点検は2人体制というルールを決めています。
 私は、それを守らず1人で点検をしました。
 また点検そのものも甘かったため、
 ミスを起こしてしまいました。」

これで、ずいぶん分かりやすくなります。
ある企業の5年目社員の男性は、
私にこう言いました。

「学生のころは、文芸部にいたせいもあって、
 私は…、僕は…、で文章を書いていたんですね。
 ところが会社に入ってみると、
 みんな主語‘私は’で書いてない。
 おかしい、と、ずっと違和感がありました。

 ところが、2年3年するうちに、だんだん主語‘私は’
 で書かなくなりました。
 5年目のいま、まったく書かなくなりました。

 今日の研修で、それを思い出しました。
 また、主語‘私は’で、
 ものを書いてみようと思います。」

社会人の人は、
たった一日の研修でも、おそるべき文章の上達をみせます。
とくに要所に、主語「私は」を入れると、
すっきり伝わる文章になるだけでなく、
「責任感」や「主体性」がぐっと前に出てきます。

会社は、どう考えるか?
私は、どう考えるか?
私と会社はどうかかわるか?

そういう関係性が、
「私」を核に、はっきりと秩序を持つからです。
社歴の若い、ある女性は、こう言いました。

「電車でケータイを使わないようにするための
 提案文を書いたんですが、
 読み手はだれなのか、
 最初、ほとんど考えてなかったんです。
 おそらくこれを書いたときの私は、
 私鉄の社長さんとか、上の人に読んでもらって、
 上の人になんとかしてもらおう、
 という気だったんだと思います。

 でも、それで状況は変わるか?

 なぜ、電車でケータイを使う人がいるかというと、
 その人たちは、心臓のペースメーカーに与える影響とか、
 ほんとうのところ、よく‘知らない’んです。

 まず、そういう人に知ってもらって、
 意識を変えてもらうことが先だな、と気づいたんです。」

この女性の場合、
読み手は、最初もやもやしていて、なんとなく「上の人」。
それが、最後には、
「携帯の知識が不足している乗客に、ひとりでも多く」
だと、はっきりします。

このように、おとなの場合、主語「私」を入れて書くと、
「読み手」もはっきりします。
「私」の立脚点が見つかるのと、
「読み手」を発見するのは、ほぼ同時です。

社員としての私は、世の中に何をしたいか?
私は、会社の人たちに何ができるか?
個人としての私は、社会とどうかかわるか?

といった、かなり複雑な人間関係も整理できます。

社会に出て働く私、
趣味に熱中する私、
一家のお父さんである私、
上司としての私、部下としての私、
かつて子どもであった私、学生であった私。

社会人は、すでに世に出て、
いろんな人間関係を結んでいて、経験知も高い。
ただ、それらが、ばらばらなのが問題なだけですから、

要(かなめ)のパーツ、主語「私」を入れることで、

一気に、自分と自分をとりまく世界の関係を押さえた
アウトプットができるようになります。

ところが、ごくまれですが、こんなケースもあります。
仮名で、用司(ようじ)さん、26歳。
自分がいちばん言いたいこと「意見」の欄に、

「埼玉局は、活性化する。」

と書いています。主張がわかりにくいですよね。
それで、主語「私は」で、
この文を書いてみるよう勧めました。
他の人はたいがいすぐ、入れられます。

ところが、用司さんは、しばらく考えて、
「できません」と言いました。
慣れていないだけだと思ってわたしは、

「私は、埼玉局の一員として、局を活性化させたい。」

のですね? と質問しました。
用司さんは、「ちがう、埼玉局の人間ではない」
と言います。そこで、

「私は、埼玉局を活性化したい。」
「私は、埼玉局の人たちに、局を活性化してもらいたい。」
「私は、上の人に、埼玉局を活性化してもらいたい。」
「私は、ただ単に、埼玉局は活性化すると思う。」

など、いくつかの選択肢をあげて、
じっくり考えていただきました。
しかし、用司さんは、
自分のいちばん言いたいこと=意見の欄に、
自分自身で書いた文の中に、どうしても
主語「私」を、入れることができませんでした。

用司さんは、「関係把握力」に
基礎的なつまずきがあるのではないか、
高校生にやってもらっているような、
「関係をつかむワーク」
を、優しいものから、順順に、複雑なものへと
やり直してもらったほうがいいのではないか、と思いました。

十代には、
「関係把握力」につまずきを抱えた人も多くいます。

で、そういう子は、
おとなのように主語「私は」を入れたら、
飛躍的に解決、とはいかないのです。

おとななら、
「昨日、みのもんたさんが、
 タマネギの皮で血がサラサラになると言っていた。
 私は、これはいい、
 おばあちゃんにすすめてみようと思った。」
と書くところを、

「タマネギの皮が血をサラサラになる」

のように書きます。
これ、単純なテニヲハではなく、関係がつかめないんです。

そもそも、みのもんたさんの意見と、自分の意見の
区別がつきません。だから、悪気なく、
みのもんたさんの発言を
自分の言葉のように書いてしまいます。
そして、タマネギの皮で血がサラサラになることが、
自分にどういう関係があるのか、
なにか想っているから書くんだけど整理して語れません。
そして、とどめに、今それを書くことが、
自分とどういう関係があるかわからない。

結果、唐突に「タマネギの皮が」って何が言いたいの?
だれに向かって言ってるの?
十代にしては少々中年っぽい話題だけど、
あなたの足はどこに立っているの?

そもそも、あなたはだれ?

という印象になります。
でも、こういう子も、他人の文章を読んで、
自分の違和感、反発、共感、発見を
洗い出すワークをすると、
他人の意見と自分の意見の区別がついてきます。
地道に基礎をかさねることで、関係がつかめてきます。

1人称がいない文章を書く子は、
年齢のわりに、
関係をとらえる力が育っていないのではないか、
あくまで、これが私の仮説です。

すでに社会に足が立っているおとなが、
「うちの会社が…」「上司が…」といった1人称に、
ちょっと「私」の影をひそめるのとは違い、

十代には、これから世に出て、
社会という大海原と、「自分」を関係づける、
一大事業が待っています。
基礎的な関係づけができないままになるのは危険です。

なぜ、十代でも関係づけのうまい人と、
おとなになっても関係づけられない人がいるのか?
周囲の感じる苛立ちはなにか?

さらに、次週につづきます。




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
bk1http://www.bk1.co.jp/
PHPショップhttp://www.php.co.jp/shop/archive03.html

2003-02-05-WED

YAMADA
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