YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson117 具体例の達人になる

人前で話すのが好きという人は少ないと思う。
なんとか楽しくのりきるために、
私は講演のことを、自分で勝手に「ライブ」と呼んでいる。
ちなみに、

講演をする ライブをやる
単発原稿を書く シングル制作
アルバム制作

と呼んでいる。地味な作業に変わりないが気分は変わる。
ライブで話してみると、人の反応をもろに受けるので、
一人で書いたり、考えたりしてたことと
「あれ? なんかちがうな」と気づくことがある。

最近、新鮮な発見があったのは、
人に話すとき、自分が思っている以上に、
「具体例」って大事なんだ、ということ。

人前で話すとき、私がいちばん頭を悩ますのが、
主題と構成だ。

「主題」、つまり、何を話すか?
「構成」、つまり、主題をどういう手続きで伝えるか?

これさえしっかりしていれば後はなんとかなる、
といういう考えがずっとあった。
だから、具体例については、構成メモのところに、
「ここで適切な具体例」とだけ書いておき、
行きの新幹線の中で考えたり、
その場でアドリブで差し替えたりということさえあった。

でも、ライブを繰り返すうち、
「いや、そうではないんだ。
具体例こそが肝心なんだ。
具体例がショボいと、主題までショボくなるのだ」
ということに気づかされた。つまり、

具体例は主題を規定する。

聴いている人の反応を見ていると、
表情が変わったり、「ああ」と頷くタイミングが、
具体例のところなのだ。

人の体にたとえると、
主題は「脳」、構成は「骨組み」、
具体例は「肉」のようなものかもしれない。

肉声で語るときに、
生々しく、印象強く、すばやく共有できるのは、
「具体例」のほうだ。
文字通り、具体的だからだろう。

それにくらべると、「主題」として伝えようとすることは、
より抽象的で、知的に納得するまで時間がかかる。

だから、
聴く人は、具体例から受けたインパクトのサイズで、
主題のサイズを規定してしまいがちだ。

ところが、話す側は、あらかじめ全体像がわかっているから、
主題が「主」、
具体例はそれを伝える手段で「従」と考える。

だから、つい、「あまり、いい例ではないんですが…」
と、具体例を甘く見たり、テキトーに流したりしてしまう。
(書きながら耳が痛い。)

しかし、聴く方にとっては、
具体例が下品だと、主題も下品に、
具体例がいいかげんだと、主題もいいかげんに、
具体例が的をはずしていると、
その日の話の印象まで、的外れな印象に映ってしまう。

具体例、ゆめゆめ、おろそかにすまじ。

この前の講演の中で私は、若い人に
「いま起こっている問題について考えたいなら
歴史的背景を見ることだ」と話した個所がある。
でも、そこは、方法論を100回繰り返すより、
現在起こっている問題を一つとりあげ、
それが歴史的背景を押さえることで、全くちがって見えるような
具体例を一つひいた方が、
ずっと効果的だったと、後から想った。

具体例をつめること、
これは、私の次なる課題だ。

うまく具体例を使うために、
混同されがちな「具体例」と「たとえ」は違うことを
まず、確認しておこうと思う。

具体例(例示)は、「根拠」にもできるけど、
たとえ話(比喩)は、積極的な「根拠」にはならない。
たとえ話を根拠にしてしまうと、自分でも気づかないうちに
論理のすりかえ、いわゆる「インチキ」をしてしまいやすい。

例えば、部長さんが、部内人事を変えたとき、
人間関係がわかりにくいので、
「野球チーム」にたとえて、
わかりやすく部下に説明してあげる、
これはOKだ。

しかし、部内人事に反対する部下に対して、
「新しい組織は野球チームにたとえるとこうだろ?
だから、この部内人事の考え方は間違ってないんだ」
とやると、論理のすりかえになってしまう。
野球と会社では組織のあり方がずいぶん違うからだ。

この場合は、新しい部内人事の考え方を
先に実行して成功している他部や他社の具体的事例ならば、
「根拠」にもできるだろう。

自分がAということを言おうとしたとき、
たとえ話は、Aをわかりやすく人に説明するための手段
と心得ておくほうがいい。
たとえ話を、積極的な根拠にしてしまいがちな人は、
あまりつづくと自分までインチキくさい印象に
うつってしまう場合もある。
私もこれをやってしまうとき、視野がどこか狭くなっている。
そういうときは深呼吸、外に目を向け、
少し新しい具体的現実を見てみる。

では、ふさわしい具体例は、
どのあたりから引いてくればよいのだろう?

だれもが思いつくのは、テレビや新聞で見た例だ。
高校生の論文を読んでいても、
やっぱりマスコミの影響は強い。
しかし、素人計算をしても、テレビの視聴率1%は100万人だし、
同じ新聞を800万人とかの人が読んでいるとなると、
マスコミから引いてくる具体例は、
それだけで新鮮味に欠けることにもなる。
すると、主題までありふれたものに映る可能性がある。
それに、マスコミから具体例をひいてくるとき、
マスコミ流の見方がくっついてくることがある。
だから、マスコミから具体例を引く場合は、
そこになにか自分流の見方を加えられるといいと思う。

それなら、ということで、
文献などから、具体例を引いてくる。
この場合は、知識がどのくらい自分にとって血肉化しているか?
がポイントになるのではないだろうか?
付け焼き刃で仕入れた知識を、
人前に披露するというのは
私はやはり気が引ける。
ものづくりをしていた人ならわかると思うが、
その文献が発表されるまで、
創り手がどれくらい苦労しているかが想像できるからだ。
それらを2次情報として安易に使うより、
1次情報を提供できないかな、と欲が出る。

そう考えていくと、
自分自身の経験、見聞から具体例を引く、
というのは、まず、やってみる価値があると思う。
自分という人間の人生で検証された具体的事実であるし、
オリジナルという点で、
他人やマスコミが知りえない例である。
血肉化されたという点も充分だ。
これだけ情報があふれているからこそ、
自分の経験を積極的に発信していっていいと思う。

ただ、これにもやはり注意点があって、
「自分の経験からAということが言える、
だからあなたもA、だから人はみんなA」
とはならない、ということだ。
そこに注意して使いこなせば、
実感がこもった話ができると思う。

経験に基づいて話をしていくと、
自分の経験からだけでは、
どうにも通じ合うことができない他者とか、
自分自身の小さい経験の殻を破って、
もっと伝えたい主題とかに
出会うことになる。

そこで、必要になってくるのは、
「取材力」だと思う。
自分の経験値からだけでは語れないものを、
探したり、集めたりする力。
しかも、すでに形になったものからだけでなく、
オリジナルで引っぱってくる力だ。

このところ総合的学習時間などで、
こどものころから、電話でアポイントをとって取材にいったり、
地域の人に話しを聞いて文章にまとめる
いわゆる「聞き書き」を授業に取り入れるという動きがある。
「取材力」は、ジャーナリストなど一部の職業だけではなくて、
自分の考えを、外に対して積極的に語っていくため、
だれにも必要な基礎力になってくると私は思う。

「ふさわしい具体例が引けるか?」自分に問うことで、
抽象 ⇔ 具体、を行ったり来たりする力が鍛えられ、
知識や経験など、自分の器を知ることもできる。
外の現実へ目が向くようにもなる。

話す、書く、どちらにしても600字以上になれば具体例が
必要になってくるから、まずは、人に対して、
やや長めの自己発信をすることから始めてみてはどうだろう?





『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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2002-10-09-WED

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