YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson116 自分の位置を発見する


後輩からのメールのタイトルに、

「単なる自慢です。」

とあってウケた。
内容には、飲み屋さんで偶然、
写真家のヒロミックスさんに会えたことが、
やや興奮気味に書かれていた。

私はすっかり感心してしまった。
自分のメールに自分で「自慢」と書くセンスにだ。

漫才などで、
ネタがすべって、場内をシーンとさせてしまった芸人が、
「あかん、みんな引いてる!」
と言うと、その発言の方にドッとわいたりする。

ここには「外から自分を観る目」が効いている。

「本当のこと」を言えば、たとえそれが、
「自慢」だって、「客を引かした」だって、通じ合える。
自分にとって否定的な状況もちゃんとつかんでいることに
好感が集まる。

ものを伝えるためには、客観性がいる。

先週末、テレビの構成をやっている友人に、
ドキュメンタリーを数本見せてもらった。

それは、見る人に訴えかけるものがあり、
番組のキャスター、コメンテーターも
興奮して見ていた。賞もとった。

例えば、「花火」のドキュメンタリーなら、
花火師たちが、構想を練り、花火をつくるところから、
中心となる花火師の生き方、人間関係まで、
長い日数かけて取材していく。

ところが、いざ、花火を打ち上げるというとき、
友人は、そこそこに見て、
その場から引き上げたというのだ。

「祭り」のドキュメンタリーでも同じ。
祭り当日は、あえて、
遠まきに見るか、そこそこで引き上げる。
決して、最後まで、
観客と同じ目線で観ることはないというのだ。

観客と同じ目線で、
花火そのもののインパクトに取り込まれたら、
「素晴らしい花火だった」という番組になってしまう。
その先にあるものを伝えようとしているのだという。

私は、2つの点に共感した。
一つは、友人の、自分を律する「強さ」だ。
その花火は、映像で見てもすごかった。
仕事を忘れてでも、見入ってしまうほど見事なものだ。
彼女は、チームの中での「構成」という立場や
「引いた目線」の大切さをよく知っていると思った。

もう一つは、そういう強い人でも、
「自分の感覚は弱い」と知っているということだ。
この道20年のプロでも、花火に見入ってしまうと、
感覚的に引きずられてしまうことを、友人は自覚している。

編集の仕事でも、これはまったくそうだ。

「ものづくり」の渦中にある人は、
バランスを失いやすい。
偏ったり、不安になったり、いびつになったりする。
周囲のちょっとした反応に、
過剰に喜んだり、極端に落ち込んだり、
人のアドバイスを聞き過ぎたり、かたくなに拒否したり、
取材対象や、テーマに、のめり込んでしまったり。

大事なのは、そうならないことよりも、
そうなりやすい自分の弱さを知って、手を打つことだ。

それで、企業にいたとき、
メインの編集者が中心になってものをつくるとき、
サブでもう一人つけ、極力引いた目線で、
全体方針や構成を見ていく体制を立てていた。

だから、私が、個人で仕事をはじめたとき、
客観性をどう獲得し、保持していくか?
深刻な問題だった。

最初のころは、
ものづくりにのめり込むズーニーさんと、
引いた目で見る編集役の山田さんの、1人2役を、
かなり意識してやっていた。
編集者役の山田さんが、
思っていたより使えるというか、
わりに厳しく、よく突っ込む。

だが、ひとり突っ込みにも限界はある。
外部とのやりとりで、傷ついて自信をなくしたり、
逆に、ほめられて慢心してしまったりすると、
ほんのちょっとだけ、「引いた視点」が鈍る。
続くと、まるで生活習慣で、少しずつ背骨がまがるように、
自分でも気づかぬうちに、客観性を見失うことがある。

危機感なく、そのまま突っ走ると、
周囲のほとんどの人が、
「なんか、よくない方へいっているよな」と感じている。
でも、本人だけそれにまったく気づかない。
気づいたときは手遅れ、となる。

何人か、そういう人をみてきたので、
そうなることが一番恐い。

何かやるためには、
周囲の反対や抵抗は、あって当然だと思う。
でも、自分にとってマイナスの現実であっても、
私は、正しくつかんでおきたい。
漫才の、「あ、引いてる」でも、
まだ客と通じ合えるように、
「本当」を見て「本当」を言う限り、
人と通じ合う余地はある。

ものを書く友人たちも、
考えたら、自分を客観的に見るために工夫している。
尊敬する先生について、定期的に講評を受けたり、
仲間と合評会をしたり、
この人、と思う人に依頼して、批評をもらったり。

友人たちに、私は、
こんなお願いをしようと思ったことがある。

「これから、私が書くものが、もし、
 少しずつ、変な方向へいってしまったとしたら、
 その時は、どうか、
 正直に私に教えてください。友だちでしょ」

きっと、その時、自分は不安だったのだろう。
でも、編集役の山田さんが、すかさず突っ込んだ。
「人に頼んで、受け身で待つ。
 そんな甘いことで、客観性って得られるのかなあ?」

そのとおりだった。批判というものは、
よほど相手を継続的に、よく見ていなければできないし、
相手の感情的抵抗も受ける。
アドバイスでさえ、相手を傷つける行為なのだ。
そのリスクを人に負わせるのか、ということになる。

本気で、客観的な意見を聞くには、
具体的なものを用意し、質問をつくり、
話しやすい雰囲気づくりをして、
自分から、聞きたい相手に、
つっこんで聞く必要があるのだ。

これは、試してみたら、
自分の位置を知るのにとても効果があった。
つまり、自分の何が評価され、
何が求められているかがわかる。

ただ、足場を確認して、その先どう進むかは、
やはり自分で考えていくしかない。
「次への指標」になるか、というと、
これでもまだ、積極的な方法とは言えない。

企業にいたころは、豊富なデータがあった。
だが、そういうものが簡単に手にはいらない、
いまこそ、自分の潜在力は試されるのだ。
自分への客観的な声を、
もっと積極的に集める方法はないか?
と考えて、最近、私は、これが個人でできる
もっともいい手ではないかと思いはじめている。

それは、「実際に新しいことをやってみる」という手だ。

素直に考えて、
ある人に、その人は自分からは何もせず、何も変わらず、
「わたしについてのご意見を、どしどしお聞かせください。
わるいところがあっても、ご遠慮なく」
と言われた場合を考えてみよう。
それだけでは、なかなか意見を言う気にならないし、
とおりいっぺんのことしか言えないのではないだろうか?

あるいは、仮定形で、
「わたしが、もし、こういうことをするとしたら
どう思いますか? どしどしご意見を」
と言われたとしたら、どうだろう? 
これも、もう一つ熱が入らないのではないだろうか?
だって「仮定」だ。現実ではない。臨場感がわかないのだ。

しかし、現実に、あなたが
「新しいことをやってしまった」としたらどうだろう。
新しいということは、良くても悪くても「変化」だ。
しかも仮定でない、「現実」の変化だ。となれば、
これまで、あなたに何も言わなかった人でも、
何か言いたい、かきたてられる気分になる可能性が高い。

新しいことを仕掛けてみて、
それに賞賛がよせられたら、
それがそのまま次の指標になる。進める。
逆に、失敗して、たたかれたとしても、
それは、客観的な意見を集めるのに
絶好のチャンスではないだろうか。

変化に対しNO! を示した人はいったい、
どんな理由をあげているのか?

その理由の中に、相手が、いままで
あなたをどのように観ていたか、
何を求め、何を期待してきたか、
過去から現在へ、連続性のある、
あなたへの評価がまじっているからだ。

攻撃は最大の防御というけれど、
新しくしかけていくことは、
自分の位置を発見するためにも、
最良の策ではないだろうか?





『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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2002-10-02-WED

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