YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson110  汚しのある表現


「あのセット、
いい<ヨゴシ>入ってたわあ!」

ドラマのセットをたくさん手がけている
アートディレクターの人と、友人が、
オンエアされたドラマをあげては、
「ヨゴシ最高」とか、「ヨゴシ最低」と言いあっていた。

ヨゴシって、なんのこと?
と聞いてみると。

つくりもののセットを、わざと汚すテクニック、
つまり「汚し」だそうだ。

たとえば、お茶の間のセットを新しくつくる。
そのままでは、ピカピカでどこかうそっぽい。
実際、人が暮らしている部屋は、
傷、シミがあったり、古びていたり。

そこで、セットを、わざと汚してく。

ただ、これを素人がヘタにやると、
単に全体にうす汚い印象になるだけだ。
プロは人間の生活に即した汚しをいれていく。
例えば、よく触る照明のスイッチまわりの手あかなど、
プロの手にかかると、えもいわれぬ生活感が出てくる。

やはり、音も同じようで、
ドラマ「寺内貫太郎一家」を見学したとき、
居酒屋で、浅田美代子さんと樹木希林さんが
カラオケを唄うシーンで、
入念なチェックをしていた音声さんが、
「OK! でも本番までにまだまだ音を汚します。」
と言った。
本物そっくりにやってとった音でも、
やはり、スタジオで収録した音はきれいなのだそうだ。
雑音を混ぜ、あえて音を汚していくと、
視聴者が、まるで居酒屋にワープしたような
臨場感が出てくる。

先週のこのコーナー「殺菌される表現」には、
予想外に、たくさんの多様なメールをいただいた。

友人からも、こんなメールをもらった。
彼女は、仕事では取材記者、
プライベートでは戯曲、
とても性質の違うものを書いている。

………………………………………………………………………

先週の「ほぼ日」を読んで、
整理された文章を書く仕事をしているものとして、
思ったことです。

取材から帰ってくると私は毎回、書けなくなります。
取材前は自分なりの仮説があって、
原稿の構成もだいたい決まっている。
でも取材に出ると、
仮説からそれた情報(魅力的な!)を
わんさともらってしまって、
より書けなくなる。
書くために取材に行くのに、取材に行くと書けなくなる。

そしてそこからが一番苦しい勝負です。
この情報(事実)の中から何と何を選んで、何を捨てて、
どんな物語を引き出すのか。
冷蔵庫の中を見てこの材料で何をつくろうか?
というのと似ています。
こう組み合わせると3品できるけど、
どれもメインにはならない。
これを組み合わせるとメインになるけど
あまりに平凡だとか。

そして何とか献立が決まるのですが、
他にもありえた献立を思って、
いつもさみしくなります。
レストランの食事ではあるけど
栄養バランスのよい家庭の食卓ではない、
美しすぎてホンモノじゃない感じなのです。
まぁ、新聞が雑多な情報だと読者が忙しいですけど・・。
整理しつくすと、途端に自分にとって
もう魅力的でなくなってたりもしますし。

戯曲も同じような苦しみを持つけれど、
雑多 _ 整理という構造で人に伝えようとするのは
戯曲ではやめよう(やめたい!)と思っています。

雑多 _ (整理) _ 別の雑多に変換する感じかな。
まだうまく言えませんが。

整理してもしてもし尽くせない何か。
考えても考えてもわからない何か。

そんなものに心はひかれ、動かされるのですよね。

………………………………………………………………………


整然とした情報の限界や、
その反対にある表現とは何かが、
このメールには、よく表れている気がする。

先週、「汚れた表現」の定義が乱暴だったので、
このコーナーが何か別物になっちゃうのか? とか、
これからは、未整理なくだけた情報を
ぶつけられるだけなのか?
と心配になった人もいるようだけれど、
そんなつもりはまったくないので安心してほしい。

編集の仕事を通して、
雑然とした情報を、ゴールを明らかにし、
読者の側から見て、わかりやすく
整理して伝える術を鍛えてきたことは、
これまでも、これからも、
自分の財産だとおもう。

ただ、もっと自由になれたらなあ、と。
表現において、読者も、自分も。

交通整理がいきとどいたもの ⇔ 雑

検証された静的なもの ⇔
まだ検証されてない動きつつあるもの

完成度の高いもの ⇔ 未完だが可能性のあるもの

わかりやすいもの ⇔
わかりにくいがリアリティのあるもの

役立つもの ⇔ 役には立たないが魅力あるもの

たとえば、そんなふうに、
ふり幅のある表現を、
自分の意志に応じて、行ったり来たり、
柔軟に使い分けられるようになるといいなあと思う。

そういうふり幅を、行ったり来たり、
使い分ければいいじゃない、自由にやれないの?

って、思う人もいると思うけれど、
口でいうほど簡単ではないようだ。

以前、権威ある人がずらりと並ぶ
シンポジウムを視聴に行った。
どの方も、二重三重の肩書きがついている上に、
さらに輝かしい経歴が一人一人、
スクリーンに映し出されて紹介された。

ディスカッションが始まって、
わたしは、不謹慎にも、「ひと言要約」をしてしまった。
そのディスカッションは、結局は、
「わたしは間違ってない、あなたが間違っている」
「いや、私は正しい。あなたこそ間違ってる」
「いや、私は間違ったことは言ってない」
「いや、私は、これ、このとおり正しいことを言っている」
というようなものだった。
肝心の、日本の教育の未来はどこにいったのだろう?

時間が過ぎたので司会が締め切ろうとしたのを
さえぎって、ひときわふんぞり返っていた先生が、
「これだけは言わしてくれ!」と割り込んだ。
そのコメントはすごく長かったけど、要約すると、
「私は、本日、断じて間違ったことは言ってない!」
だった。

「保身」という根本思想を強く感じた。
わたしから見れば、
ゆるぎない立場があるように見える人たちが、
その立場を守るのに必死に見える、なぜだろう?

やっぱり、日本には、失敗は悪いというか、
失敗はしてはいけない、という考えが強くある。

だから、立場のある人は、
自分の背負ってきた権威が重すぎて、
めったなことは言えない。
検証済みの正しいことだけを言おうとして、
時間の針が、少し過去に向く。
新しいものがうまれない空気。
立派なことを言っているのに、
なぜか、人をかきたてたり、打つものがない。
偉い先生には、そんな人ばかりじゃないとおもうけど、
でもその日、その場は、
表現において自由ではない気がした。

一度、完成度の高いものを世に出した人が、
次に完成度を下げるとか、
一度、権威のある人が、
あえて、間違ってるかもしれない考えを語るとか、
口では簡単に言えるけど、
現実には、すごく厳しいことのような気がした。

保身する必要のない私でさえ、
わかりやすさというベクトルを追究してきて、
たった1回、わかりにくいものを出してみるだけで、
おろおろした。本当に恐かった。

でも、私の身近には、
そうしたことを、勇気をもってやっている先輩がいる。
完成度を目指せ、と言われたら、人にまけない
ものすごいものができるのに、
あえて権威をまとわず、保身に走らず、
生な、まだ多くの危険をはらんだ未完の考えをあえて
素材として世に提供したり、
たたかれたりする自由も持っている。
失敗する勇気をもち、時間の針は未来に向いている。

グラウンドで1周近く抜いてしまった人は、
外から観ると、遅れた人に観える。
そういう人の中に、真のフォアランナーがいる。


ピカピカのセットに、あえて汚しを入れる、
あなたは、そんな表現をしたことがありますか?
そのとき、何をめざしたのでしょうか?





『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
bk1http://www.bk1.co.jp/
PHPショップhttp://www.php.co.jp/shop/archive03.html

2002-08-28-WED

YAMADA
戻る