YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson109 殺菌される表現


先週、このコーナーで、
プライベートメールを載せた。
公に出される情報は、
殺菌され、わかりやすく交通整理され、
きれいに過ぎるので、
もっと汚れた、動いている情報を提示してみたい、
という意図でやったことだ。

そのことにより、読んだ人の、
まだ形にならない、さまざまな想いが引き出せたらなあ、と。

ほんとうは、「おおやけ」を全く意識しないコラムを、
まったく私個人のどろどろした想いを、
殺菌せず、交通整理もしないで、
書ければよかったのだが、
どうしても、「ほぼ日」にコラムを書く、となると、
一行目から、人目を意識してかまえてしまう自分がいる。

それで、ごく日常に
あくまで私的に本当にやりとりしたメールを、
無修正、無編集で出す。
という方針を決め、
準備は、あっという間にできた。
それもそのはずだ。
いいものを選んではいけないし、
ある意図のもとに、内容を足したり、削ったり、
並べ替えてはいけない。
編集しない、というのが、編集方針なのだから。
極力考えずに、最近のやりとりを、
コピー&ペーストした。

ただ、それだけなのに、
いざやろうとすると、ものすごく悩んだ。
正念がいった。
更新ぎりぎりまで、
これで行く、と、取りやめる、の想いが交錯した。

まず、これを読んだ人がどう想うのか?
まったくわからなかった。
まったく、というのは、ゼロ、ナッシング、ということだ。
私は、メールに登場する人物も、
前後関係もわかりきっている。
だから、前後関係もわからず、
知らない固有名詞ばかりが登場するメールを読む人の目に
なることができなかった。

これが、アイドルの私信とか、
何か成功した人の私信なら、価値を持つ。
私だって読んでみたいと想う。
しかし、一般人のものとなるとどうだろうか?

私は考えた。
考えてわかったのは、18年の編集生活で、
自分は一度もこういうものを世に出したことがない、ということと、
自分には、掲載の可否が決められないということだ。

そこで。
自分には決められないという事実を引き受け、
ほぼ日の編集担当の方に、
載せるかどうかを決めてもらう、ということを、
自分の意志で決めた。

足掛け3年、このコラムを担当してくれた人なので、
読者感覚をつかんでいることと、
原稿に対する感想で、決して私にうそを言わない、
ということに、全幅の信頼が持てた。
3年やってきてこその、信頼関係だ、と気付いた。

編集担当の決定は、意外にも、
このまま載せてみましょう、ということだった。
原稿そのものへの評価はけしてよくはなかったのだが、
載せないより、載せる、ということですすんだほうがいい、
という助言をもらった。

「載せていい」ということになると、
いろいろなことが、どっと不安になった。
まず、友人・知人の個人情報が出てしまう。
それで、全員に、許可とりの連絡をした。
「考えがあって、今回は、どうしても、
イニシャルや仮名をつかいたくないのだ」
という、われながら要領を得ない説明をした。
自分は、なにか大切なことをしようとしている、という想いと、
大して意味のない思いつきで、
みんなをかきまわしているだけではないか、
という思いが交錯した。
意外にも、全員から、あっさり、すんなりOKが出た。

とくに、いちばん多くメールを掲載した友人は、
「原稿読んでないけど、信じてるから、いいよ。」
と、見る前にOKしてくれた。

だれか一人でもNOだったら、
この企画はやめようと思っていた、私の悲壮な決意は、
ここでも肩すかしだった。

こうして、つぎつぎことが運ぶと、
今度は、自分の身がかわいくなってきた。
「あの一行は、誤解をまねくから取りたい」とか、
「この表現は嫌悪感をもつ人が多いから変えたい」
という気持ちが次々でてきた。

公的に書くものと違って、私信では、
さまざまな読者を想定しないから、
よく考えない表現や、断定が多くなっているのだなあ、と思った。

そして、わかりにくい表現を、
読者にわかるように改めたいという気持ちが起こっては、
抑えた。

自分は、マスメディア、それも、教育という、
もっとも校閲の厳しい世界でやってきた人間なんだなあと
改めて思った。

マス編集では、「ポイントだけを、短くまとめて、
だれにもわかりやすく」
という考えのもとに、2校、3校と読み直し、
表現を直し、直しして、世に出していた。
結果、原稿は、間違いのないものになり、
殺菌され、交通整理され、
なにか、とてもきれいなものになっていった。

私たちは、本でも、テレビでも、
よく検証された、間違いのない情報を、
かいつまんで、わかりやすく手軽に手に入れたいと望む。

許可を取った友人の一人は、
長年、テレビで構成作家をやってきている。プロだ。
今回の、私の試みに、
「まず、テレビでは、絶対ありえない表現だ」
と言った。
「知らない固有名詞がでてくる、状況がわかりにくい、
テレビでは、まず成立しない」
わたしも、それは、すごくよくわかった。

でも、だからこそ、中途半端な説明や、意図をこめないで、
このまま、まっすぐ読者に出してみて、
まっすぐ結果を受け止めて、先へ進んだほうがいい、
ということで、2人の考えは一致した。

私たちは、間違いのない、整理された
きれいな情報を好む。
でも、ふしぎなもので、そういう正論を得てしまったとき、
なんとも釈然としない、どろどろしたものを、
身体の中に抱え込む。

「真剣10代しゃべり場」という番組が、
長きにわたって支持されているのも、
私たちが「想い」を持ち、
まだ形にならなくても、
決して表現がうまくなくても、
どこかにそれを表したい、と思っていることの
あらわれではないかと思う。

20代以上だって、真剣なしゃべり場がほしいし、
真剣な論議をしあっている。
でも、それは、マスコミの表舞台ではなくて、
ごく個人の場でひっそりと行われている。
権威もなく、マスでもない、
話題はトレンドでもなければ、キャッチーでもなく、
高尚でもない。
それでも、どこまでも真剣な個人の想いが
そこにある。
そういう、個人のやりとりが、
もっと表舞台にでてくれば面白いのになあと想う。

そういう意図を固めながら、
一方では、なんで実名や歳を公開しなきゃいけないんだろう?
よりによって、なんでこのメールなのか?
読者が離れていくのでは?
「わかりやすい表現をしよう」と言ってきた人間が
こんなわかりにくいものを世に出せば、マイナスイメージに
なるのでは?
というような、人間のちっちゃい、ネガティブなことまで考えた。

最後の壁は、「まちがい」をどうするか?
だった。私信は、いちいちファクトチェックをしないから、
細かい間違いがたくさんあるんだなあ、と改めて想った。
私の中にもあったし、
友人の書いたメールにも、事実の間違いがあった。
正確な事実を検索しながら、直すかどうか、ぎりぎりまで迷った。
直したり、注を加えたら、全部うそになるような気がした。
でも、わざわざ間違った情報を流すことの責任を考え、
間違っているところ、問題があるところだけ、
数箇所、やむなく改めた。
これで、正しくはなったが、こめられた「想い」は弱まった。
もとの、事実の間違いを含んだままの友人のメールのほうが、
ずっと偽りのない想いが伝わってくるのだ。

こういう不正確な情報が、
私信で多くやりとりされていることは、
今のメール社会の問題だ、とも想った。
でも一方で、間違いがなく、きれいだが、
個人の真剣な「想い」のない情報が行き交うことと、
どっちが問題だろう? とも考えた。

この日の更新は、おおきい画面で見る勇気がなかったから、
まず、携帯の小さい画面でトップページを見た。
今回のことで、いちばんびびっていたのは
私だなあ。

読者からメールがこないので、
「やっぱり引いてしまったか?」とずーーんと沈んだ。
読者にしてみれば、
「園実ってだれ? みどりって何? だったろうなあ」
ちょうど帰省中だったが、ちょっと
父母の会話が遠ざかっていくようなショックだった。

夕方になって読者メールがとどき、
一気に元気になった。
心が動いているメール、
「それなら、自分もふだんから想ってることを」
言ってみてくれたメール、
形にならないんだけど、これだけ言いたくて、
というメール、
本当にうれしかった。

これで、私信公開企画は大成功、だったら、
めでたし、めでたし、なのだが、
ふたをあけて見ると、「それ以上でも、以下でもない結果」
だった。
いつもより、アクセス数はやや少なめ、
読者メールの数は変わらない(でも内容はうれしかった!)
当初意図した、
まだ、形にならない、多様な想いを、
ぞくぞく引き出す、という結果にはならなかった。

でも、この方向に決して発路がないわけでは
ないこともわかった。
まっすぐやってみて、
まっすぐ現実を受け止めて、
工夫を続けていけば、
何か自分なりの、あたらしいものができるかもしれない。

結局、いろいろ心配したことの多くが、
自分の一人相撲だったことに気付いた。
自分が自分について気にするほど、人は、
自分のことを気にしておらず、ごく自然に受け止めるのだな、
と、今回わかった。
だから、実行してみるといい。

戯曲を書いている友人が、
だれに向かって書くか、を話しているとき、
こんなことを言った。
「たった一人、ある特定の個人に向けて書くもののほうが、
圧倒的に強い。
それが多数に向けて書くとなると、
とたんに弱くなる。
それはわかるけど、どうすることもできない。」

表裏のない人間だと想ってた私も、
私信と、「ほぼ日」にものを書くときと、
実は違うんだな、ということを、今回のことで
気付かされた。

友人個人に当てて書くのから、
「ほぼ日」でマスに向けて書くとなると、
なにか、一段ハードルがあがる。
でも、私は、今回、こうも思いなおした。
「ほぼ日」にコラムを書くとなると、
たしかに、一段ハードルがあがる、
表現もきれいになる、
でも、こう考えたらどうだろう?

これを読んでいる、あなた個人に、
私からプライベートメールを書いているとしたら?

そう考えると、
いまより勇気のある表現ができるような気がする。

今回の試み、協力してくれた人、
読んでくれた人、ほんとうにありがとう。

いつかこの経験をいかして、
あなたの、まだ、形にならない
真剣な「想い」を引き出してみたいと思います。
私は今、本気でそういうことを考えています。





『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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2002-08-21-WED

YAMADA
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