YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

ものは、ひらいた手に入ってくる。
今、にぎっているものを放さなければ、
決して、新しいものをつかむことはできない。

Lesson86 持てるすべてを、惜しまず出す

アメリカで合氣道をやっている
読者のD.Aさんから、

「極意にかぶれる」

という、言葉を聴いた。
稽古にくる若い人には、説明を期待し、
頭で理解しようという態度の人もいるが、
そういう人に限って上達が遅いとD.Aさんは言う。

「極意にかぶれる」とは、
初心者が達人の書いた武道の本を安易に読むと害になる
というような意味だそうだ。

これを聴いて、反射的にイメージしたのは、
向上心いっぱいで、あっちの講演、こっちの本と、
次々とポテンシャルの高い人を追いまわしている若い人の姿だ。

昔の自分を見るようで、痛がゆい。

20代のころの私は、
「すごい人たち」から、
吸収しよう、吸収しようと思っていた。
自分は未熟なのに、経験豊富な人たちと仕事をしている。
そのギャップを早く埋めようと焦っていたのだろう。

そうやって、あがき、
かき集め、身にはりつけた何かが、
今の自分をつくってくれたと思うから、
その日々を愛しいと思う。

だが、「すごい人たち」から、次々と、
もらいパワーをして歩いていた自分は、
本当にパワーアップしていただろうか?

あんなにすごい人の話を聞いて、
あんなに感動したのに、
こんなに変われない自分、に
かえって、負けてしまっていたかもしれない。

何が足りなかったろうか?

先週、私はここで、
自分の得意分野をとうとうと語ることで、
相手の何かを閉ざしてしまう危険性について触れた。

それを読んだD.Aさんは、
こんな問題を投げかけてくれた。

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アメリカにも
真面目に合氣道を習おうとしている人は
たくさんいるのですが、
やはり層の薄さは否めず、
そうすると、後輩を相手に
下手な英語で私が技の説明をするようなことにも
なるわけです。

人を閉ざしているのではないか、
と感じるのはそんな時です。

言語能力的に
普段は誰を相手にしても一方的に語ることが出来ない
という欲求不満があるのかもしれません。

異文化の地で、
しかも年齢や社会的地位が上の人を相手に、
自分の経験を有利に語ることが出来るのは、
なかなか無い機会ですから。
ちょっと気持ち良く語り始めて、
後から自分にうんざりということになります。

一方で、私は、
アメリカ流の「皆が語りたがる雰囲気」にも
興味があります。

それが必ずしも悪いことばかりではないと思えるからです。
つまり、教える側も教えられる側も、
自分の立場や意見をしっかり表明することを
重んじているわけです。
人を閉ざしてしまう心配ももちろんありますが、
語るべき時に語れないことの方が大きな問題だ
と考えることも出来ますから。


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「語るべき時に語れないことの方が大きな問題だ」

という文字に、私は、すいよせられた。
その日、私は、ベテランの編集者さんとの対談で、

「いま世の中に、読んでほしいが、
読み手がいない文章があふれている。
その方が問題だ」

というようなことを話していた。
その日、「ものを書く」ことについて、
編集者さんから、
私に、いただいたアドバイスは次のようなものだった。

「ズーニーさん、
もっともっと書いて、
自分のもてるものを惜しみなく全部出せ。
全部出しきって、自分が無くなるのを恐れるな、
無くなったと思っても、
自分の次の層が出てくる。
決して枯れることは無い。
ちょうど、地層を掘っていって、
鉱脈を掘り当てるように、
自分を出し切ったとき
はじめて、次に進める。」

繰り返し、
「惜しみなく自分の持てるすべてを書ききれ」と言われ、
それは、胸が痛いほどだった。

そのとき、気がついたのは、
どうも、自分の内面に手があるとしたら、
何か、かたく握ってしまっている。
ということだった。

いったい、まだ、何を握り締めているというのだろう?

惜しむほどの、知識も経験も才能もない。
そのときもてるものを、
精一杯ださねば、歩いてこれなかったような自分が、
それでもなにか、まだ、
にぎりしめている姿は、滑稽だ。

そのとき、
「ああ、私はいままで、
自分がこの身にはりつけてきたもので
書こうとしてきたんだな」
と思った。

知識・経験・技術…、
企業で編集者をしながら
私は、この身にたくさんのものを蓄えてきた。
たとえて言うなら、貯金だ。

貯金で書くということは、
いつかは枯れるということだ。

無意識に、それを恐れていたのかもしれない。
そういうときは、学校に行こうかと考えたり、
たくさん、本を買い込んで、次にはりつけるものを求めている。
それが、20代のころの「もらいパワー」をしていた自分と
重なり、ふと手がとまる。

いまは、長年、この身にはりつけてきたものを、
全部書いて、出しきって、
すべて、脱いでいくべき段階ではないか?
とその時思った。

「身にはりつけたもので書く」
という地層をすべて出し切ったら、やっと次の層、
「何か自分そのもので書く」
という段階に進めるような気がした。

これは、まだ自分にとってはイメージで、
まだまだ、こなれていない考えなのだけど。

語ったり、表現したりして、
そのときのもてるものをすべて出すことで、
人は、次に進める。ということは、

知識や経験を惜しみなく相手に語り、与えることは、
相手から、「ありがとう」と言われる行為だけど、
本当は、こっちの方が「ありがとう」なのだ。

うまくいけば、
自分が、持てるものをすべて与え、
相手に喜ばれ、
自分も次のステージを得るという
とてもいい循環が、表現者と受け手の間に
できることになる。

ところが、これは理屈ではわかっても
本当にむずかしいことだ。

実際には、語る場が得られない、
読んで欲しいが読み手がいない文章があふれている。
その方が、確かに問題だと思う。

人は決して枯れない。

でも、語り手は、受け手に何か感じてもらわなければ、
自分の持てるものを語る場は次からはないわけだ。
だから、語り手は、なにかの変換術で、
自分の持てるものを、
人の心に届く表現にしていく必要がある。

この変換術とは何だろうか?




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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2002-03-06-WED

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