YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

人前で話をするのは得意ですか?

私は、講演や研究会など、
たくさんの人の前で話をするようになりました。

それは、やりがいのある、
心から面白い仕事なのですが、
人前でたくさん話したあとの、
気持ちは複雑です。

人に何か、とうとうと語ったあと、
わけもなくブルーが入ったことはありませんか?

何なんでしょう?
そのブルーな感じは?

Lesson85 隠蔽する表現

たくさんの人の前で話をした原体験は、
たしか、100人くらいの高校生に向けてだったと思う。

その日まで私は、
人前で話すのはいやで、いやで、
避けてとおりたかった。
また、「目を輝かせて聞く」という言葉があるが、
それは、「たとえ」だと思っていた。

ところが、本当に、
聞いている人の目が、いっせいにキラリ!
と輝く瞬間がある。

たぶん、下を向いてたり、よそ見をしている人、
全員の目が、
私の何かの投げかけに反応して、
一瞬に集中して、
ぱっと、こちらを見るからだろう。

200個の瞳がいっせいに、
こちらに向かうと、
フラッシュほど強くはないけれど、
本当にキラリ、と、きれいな輝きを放つ。
瞬間、あっ…、と思う。

それは、印象的で、
忘れられない光景になった。

その瞬間を、私は「星の時間」と呼んでいる。
ガラに似合わない、ロマンチックな言葉だから、
こっぱずかしいけど。

「星の時間」は、
ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる言葉で。
万物が、まったく一回きりしかありえないようなやり方で、
互いに働き合う瞬間らしい。
ほとんどの人は、そういう瞬間に気づくこともできず、
利用することができない、とある。
しかし、もし、気づく人がいれば、
世の中に大きなことが起こるという。

「ちょうどいまそういう1時間が
はじまったところなのだよ。」

と、『モモ』にはある。
ともかく、何か通じた、という瞬間に出会いたくて、
私は、人前で話をしているようなものだ。
仕組んでも、起こすことができず、
偶然起きる、キラリ!
それは、後から思い出しても、
温かい、満たされた感じになる。

ところが、
そんな充実感から、さっぴかれる「税金」のように、
ヨロコビにつきまとう「ツケ」のように、
人前で話すことは、何割かの、
「重いもの」を引き受ける行為のような感じがする。

講演の帰りは、よく、この「重いもの」を感じ、
どっと疲れが押し寄せることがある。

この感じは何だろう?

他の人は感じないのかしら? と思って、
いろんな人に聞いてみた。

「自分が思うように話せなかったという後悔や、
人前で話す、恥、みたいなものではないの?」

と先輩に言われて、
たしかに、そういう気持ちはあるのだが、
それとは、また違う感じなのだ。
自分でもわりあいうまくいったと思え、
アンケートなどで、聞いた人の結果がいいときでも
この感じはある。

「人前で話すというのは、だれでも独特の緊張感があるし、
たくさんの人の気を浴びるというのは、
それだけで、なかなかしんどいことよ。」

とも言われ、ほんとうにそうだな、と思う。
でも、それだけではない何か、
「罪悪感」とか、「業(ごう)」に、近いような感じは何だろう?

ずっとそれがひっかかっていた。
ある日、別件で、読者のJ.Aさんから、
こんなメールをもらい、感じることがあった。

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隠蔽(いんぺい)する表現

私たちは、表現者のことばにふれ、
頭では理解していても、
何か違和感を感じながら、
消化不良をおこしたように
からだに入れてしまうときがあります。

何か違和感を感じながらも、
その違和感のもととなる自分の想いを
表現することばを、まだ持たないのです。

そういったとき、
私たちは無関心になるか、拒否するか、
もしくは無抵抗に受け入れるしかありません。

表現者の権威が強ければ強いほど
私たちは無抵抗に受け入れざるを得ないのではないでしょうか。

「語り」は世界を「開示」すると同時に
「隠蔽」すると言われます。

表現者は、
物語ることによって自分自身のそのときの世界を
開示しているのと同時に、
受け手の豊かな世界経験の可能性を
隠蔽しているとも言えるのだと思います。

私たちが表現者のことばに違和感を感じるのは、
表現者のことばによってひとつの世界が
開示されてはいるものの、
何か強引に豊かな世界経験が隠蔽されたと
感じるときではないでしょうか。


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なるほど、と思った。

私は、ものを考えることや、表現することについて、
よいナビゲーターでいたいと思っている。
だから、聞く人にわかりやすく、
役に立った、と言ってもらえる話をすることに、
心を砕いてきた。

でも、私が、わかりやすい説明をすることで、
かえって、その人が、経験の中で、
探ったり、失敗したりしながら、
つかんでいくであろう、その人なりのものを
閉ざしてしまっていることは確かにあると思う。

だから、語るっていうことは、
業(ごう)の深い行為だな、と思う。
それで、二つのことを思った。

ひとつは、程度の差はあっても、
表現する以上、何かを開いたら、
何かは閉ざしているわけで、
それを過度に恐れたり、逃げたりしては
何もできなくなる、ということだ。
だから、引き受ける、という感覚が必要なのだろう。
講演のあと、8割くらいの「やったー!」という感じとともに、
2割くらいの罪の意識が押し寄せたとしても、
やっぱり、ちゃんと、引き受けていかなければなあ、と思う。

そして、もう一つは、
では、人を開く表現とは、どんなものか?
探りながら、それに近づいていこう、ということだ。
目下の私のテーマでもある。

自分のことながら、
人を閉ざしてしまっているなあ、と感じることはときどきある。

例えば、後輩に、仕事について語っているとき、
小論文の専門外の人に、小論文のことを語っているときなどだ。
相手より自分の方に、
経験や知識があり、
何か、揺るぎない自信がある、と感じられるときほど要注意だ。
相手が無抵抗に受け入れざるをえない状況で、
とうとうと語る自分ほど、
自分で気づいてうんざりするものはない。

私が、何か、自分の得意の領域を見つけ、
得意で勝負していこうと思うなら、
思うほど、
自分の得意領域について、人に、どう語るか?
心得ていかなくてはと思う。

自分が未知の分野で、
恥かきながら、汗かきながらの「語り」には、
「恥」という税金を支払うためか、
隠蔽の罪にはとわれない。

しかし、自分が、
得意としているような分野の「語り」のときに、
隠蔽の罪は、音もなく忍び寄っているのではないだろうか?





『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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2002-02-27-WED

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