YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson79
批判・反論の条件――その1 自分の目線


家族とテレビを見ると、
あーだ、こーだ、言うことが多い。

たいてい、ほめる方が多いのだけど、
たまに、酷評することがある。

「このCMは、何がいいたいのかわからない」
「このドラマ、あの女優がだめ」

つい、口のすべりがよくなって、
批判をとうとうと家族に語ってしまうことが、
私にはある。

こういう言いたい放題の批判をした後って、
なにか、後味が悪い。
これは、何なんだろう?

テレビに対する素朴な意見を言いあうのはいい。
批判眼をもつのも必要だ。

何が気になるのか? と考えて、
どうも、「自分の目線」に問題があるようだ
と気づいた。

それは、ちょっとした言葉にあらわれる。

最初は、いち視聴者の目線で、
「(番組を)見てて、
(私は)何だかバカにされたような感じ」
と素朴に意見を言っている。

それが、調子づいて語っているうちに、やがて
「視聴者をバカにしてる」
という表現に変わり、しだいに
「番組はこうあるべき」
みたいな高いとこからものを言ってしまっている。

つまり、私の1人称が、
「私」から、
「視聴者代表」へ(根拠もなく)、
しまいには、つくり手の人たちを
一段、 高いところから見降ろすようなところへと
動いてしまっている。

そこがやばいと私は思う。

そのままエスカレートすると、
「おまえはテレビ評論家? おまえ何様?」
とでもいうような高いところから、
ものを言うようになってしまうんだろうか。

むこう側にまわって番組をつくれと言われたら
私はつくれない。
どんな現場で、
どんな制約条件の中でつくられたかも知らない。

自分でできないものごとに対しても、
批判眼を持つことは必要だと思う。
それを否定するつもりはない。
でも、だからといって
自分以上に高いところから、
ものを言ってもいい、ということではない。

自分の身の丈を超えた、もの言いは、
逆に、自分というメディアのサイズを小さく見せる。

私がみた範囲では、
人を批判するとき、
饒舌になる人が多い。
そして、饒舌に批判しているうちに、
目線が高くなっていく人が多いように感じる。

なぜだろう?

いま、目の前にあるもの、
パソコンでも、
湯のみでも、
「つくれ」と言われたら
すごく大変なエネルギーがいる。

では、「けなせ」と言われたら、
つくるよりはるかにラクなのだ。
饒舌になる理由のひとつは、
批判が、自分自身で何か考え出すより
ラクだからだろう。

また、つくり手の顔が見えず、
だから、そちらからの反論を聞くこともなく、
自分が一方的にする批判は、
結局、自分という狭い世界の
価値基準だけを反芻するものになりやすい。

だから、自分の中では、
理屈がすっきり通っている。
その理屈は、自分の身体への響きがいい。
それで、とうとうと語っているうちに、
自信と確信に満ちて、
目線が高くなっていくんだと思う。
目線が高くなれば、
それを相手に押し付けていいという考えに発展しやすい。

自分では何もつくらず、
何も生み出さず、
人のつくったものを高みからみて批判する

この落とし穴は、
だれでも陥る危険性があると思う。

そこで、今日から不定期のシリーズで、
批判・反論の条件を考えてみたいと思う。

批判や反論、とくにメールで展開されるものには、
わたしもまだ、抵抗力を持たず、なぞだらけだ。

なぜ、顔もみたことのない人のメールに自分は傷つくのか?
人への批判をするとき、
自分の根っこにある想いは何なのか?
批判を続ける人は、相手にどこか依存してないだろうか?
あなたの考えを聞かせてください。




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
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2002-01-16-WED

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