YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson73 言葉に語らせなくてもよいもの

人を育てる
とは、しんどいことだ。

私も会社で、何度か新人を育てたことがある。

気のついたことを、
気のついたとおり、
教えようとすると、
自分も相手も大変苦しい回路に
はまってしまう。

若いころは、
「いかに教えるか?」に心を砕いていたが、
近ごろでは、
「いかに教えないか?」
も考えるべきだと思いはじめた。

後輩を指導していたある日、
ふと気がついたのだ。

人を動かすには「根拠」がいる、と。

小論文をやっていた私は、
「意見」と「論拠」で
ものを考えるクセがある。

あることを「教えたい」と思っても、
なぜ、それが大切か?
十分な根拠が示せないと、
相手は納得しない。動かない。

だから、
「なぜ、こんなこともわからないのだ!?」
と相手を問いただす前に、
自分に問うてみるといい。

私は、相手を納得させるだけの
十分な根拠を用意できるだろうか?
 

また、根拠があるにしても、

与えられている時間内に、
説明しきれることだろうか?


そう考えていくと、
いま自分には、教えることができない、
あきらめなくてはいけないものが出てくる。

仕事の基本中の基本というようなことでも、

自分は、どうやって、
その大切さに気づいたか?
と考えると
3年、5年かかっていることが多い。

はじめは、ことの重要性を知らず、
知らないから、あちこちで失敗して打たれる。
複数から打たれてはじめて、
自分はまちがっていると気づく。
そこからやっと、
学ぼうという気持ちが生まれる。
そこからやっと、
試して、失敗して、工夫してという日々がはじまる。
失敗、それだけでは身にならない。
積み重ねていって、成功体験をもったとき、
はじめて、自分のものになる。

自分ひとりを納得させるにも、
時間、
体験、
段階を着実に踏む、
という根拠が必要だったのだ。

だから、そこをショートカットして、
他人に教えようとすることは、
「時」や、「身体」というものへの、
おおいなる挑戦だ。

十分な根拠も、
手続きもなく、
時間内には扱いきれないとわかって、
それでも相手を変えようとすれば、
どうなるか?

相手は納得感のないまま、
自分を否定され、
道をさえぎられた、
と苦しむだけで、
自分も出口のない徒労感に襲われる。

だから、教える方と、
教えられる方の、あまりに大きな距離に、
がくぜんとすることがあっても、
その苛立ちを、すぐに相手にぶつけてはいけない。
次のことを考えたい。

どうやったら、相手はそれに気づくか?
だれが、相手にそれを気づかせることができるか?
いつ、相手はそれに気づくか?


いま、自分で説明して、相手を納得させるだけの自信があれば
GOしていい。
でも、そうでない場合は、
いったん撤退して、
作戦を考えなくてはいけない。

教えたいことの根拠をどこからもってくるか、だ。

根拠として、自分の体験を持ち出すことは、
私たちはよくやっている。
つまり自分はこうやって成功したから、
あなたもそうしろ、という論法だ。

でも、それが、若い人には、
「昔話にしか聞こえない」ことがある。
時代や会社の状況が、それだけ変化しているからだろう。

そういうときは、
実際に相手にそれをやってみてもらって、
その結果を根拠にする、つまり、
「実体験に語らせる」
という方法がある。
相手にとってこれほど確実なものはない。

また、だれが相手に気づかせられるか?
自分が何度言っても聞かなかったことでも、
別の主体が言えば、一発で効くこともある。

例えば、編集の仕事で、
方針が分かれるようなものは、
編集者同士で、いいとか悪いと言い合っても、
なかなか相手は納得しないものだ。

しかし、
読者に、「いい」とか「悪い」と語ってもらえば、
素直に聞き入れられることがある。
つまり、「顧客に語らせる」という方法だ。

また、相手に教えるより何よりも前に、
自分自身が仕事について
いいやり方をし、いい結果を出し、
自分というメディアの影響力や信頼性をあげて、
「自分の背中に語らせる」こともできる。

文章を書くことにおいても、
日々のコミュニケーションにおいても、
「言いたいこと」と「その根拠」を相手に示す、
という伝える原則は同じなのだが、

文章のときと違い、
日々のコミュニケーションでは、こんなふうにして、
根拠を、言葉ではなく、
立体的に、いろんなところから工夫してもってきて、
組み立てていけることが面白い。
言葉が苦手な人でも、
えも言われぬ説得力を発揮することができる。

中でも私が、根拠としては最強と思っているのは、
「時に語らせる」という方法だ。

いま、相手に何かを伝えきれない
というもどかしさは、
自分がよい考えを持ち、よくわかっているときほど
耐えがたく、つらいものだ。

新陳代謝の早い組織では、
経験とスキルを積んだ、もののわかった人ほど、
そういうもどかしさと戦っている。

しかし、時は大したもので、
じっくりと、必ず事実を浮かび上がらせて見せてくれる。
この点で本当に、時は味方につけて損はない
頼りになる存在だ。

いま相手に伝えたいことは、
早くわかってもらうにこしたことはないが、
すぐが無理なら、
いったいいつまでにわかってもらえばいいのだろうか?
何ヶ月先か、何年先か?

それを広く、長い目で見て、
そのための仕込みの「問い」を相手に発したり、
相手が、さまざまな体験をしたり、
結果を受け止めたりできる機会を周到に用意し、
絶妙のタイミングで自分の意見を発したりしながら、
辛抱強く、
時にじっくりと、根拠を語らせていくことだ。

言葉で語りつくせなかった想いを、
時間にもの言わせながら、
じわじわと伝えていくのは、
おいしい酒ができるのを待つようで、
なかなかいいものである。




『伝わる・揺さぶる!文章を書く』
山田ズーニー著 PHP新書660円

内容紹介(PHP新書リードより)
お願い、お詫び、議事録、志望理由など、
私たちは日々、文章を書いている。
どんな小さなメモにも、
読み手がいて、目指す結果がある。
どうしたら誤解されずに想いを伝え、
読み手の気持ちを動かすことができるのだろう?
自分の頭で考え、他者と関わることの
痛みと歓びを問いかける、心を揺さぶる表現の技術。
(書き下ろし236ページ)
bk1http://www.bk1.co.jp/
PHPショップhttp://www.php.co.jp/shop/archive02.html

2001-12-05-WED

YAMADA
戻る