YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

Lesson47 「うわさ」と、どう付き合うか?

悪いうわさを立てられたことがある。

つらかったけど、
考えようによっては、こんな面白いことはなかった。

ふつう、何が真実かわからないから苦労する。
ところが、その時ばかりは、真実は自分の中にある。
それに照らして、まわりをみると、
もう、隠しようもなく、
人の愚かさが見えてしまうのだ。

今日は、うわさと、どう付き合うかを考えてみたい。

3つのパターンがあると思った。
あなたはどれだろう?

●根も葉もない噂を、人はどうして信じるのだろう?

うわさは、だれも信じなければ成立しない。
みんな、「私は、うわさなんて相手にしない」と言う。
でも、うわさが絶えないということは、
実は、多くの人が信じているということになる。

たぶん、うわさを聞いたときは、
あまり相手にはしない。
なんとなく「そうなのだろうか?」
くらいに思っている。
で、その「なんとなくそうなのだろうか?」
という人が、いっぱいになってくると、
「やっぱりそうなのか」になってくる。

相手にしない、=何にもしない、=受け身。
受け身な人は、結局なにかに操られ、
罪の意識のないままに加害者になってしまう。

運悪く、うわさというウィルスを注入されてしまったら、
頭を積極的に動かして、対処するしかない。
まず、ものごとを信じるときの「根拠」は何か、
自分の判断基準をはっきりさせておくことだ。

うわさ、で判断する人。
情報、 で判断する人。
事実、 で判断する人。

あなたの納得ラインはどこですか?

うわさというのは、「人がこう言っている」というだけで、
「根拠」がはっきりしない。
はっきりしたら状況は動き、もう噂ではなくなる。
また、人から人に伝わるとき、変容する。
伝言ゲームで実験してみれば明らかだろう。

そんなものを判断基準にしてしまっていいの?

と思うんだけど、
私のケースでは、多くの人がそうだった。
ウソを信じて、広めて、貴重な時間を無駄にしている。
あまりにも愚かなことだ。
今まで、自分もそんな一人だったのかと反省し、
以降、噂には一線を引こうと決意した。

でも、どうやって?

そのとき、手本になるような友人がいた。
「情報」で判断する人だ。
彼女は、私にうわさがたったとき、
すぐに、データを調べた。
そこで、問題ないとわかったという。

彼女は、ものごとを判断するのに、
どんなデータにあたったらいいかと頭を動かしたり、
実際に調べたり、
ということが苦ではない人だ。

例えば、雑誌などをつくっていると、
ミスが出ることがある。
そういうとき、上司が、「ちゃんと校正はしたのか?」
部下は「ちゃんとしました」、
そして上司が「これからはちゃんとするように」
という、要約すれば、こんなわけのわからないやりとりが
されることだってある。

でも、彼女はそういうとき、
データを確認してみる。
校正の費用がだれに、いつ、いくら支払われているか。
それを押さえれば、
校正は、何人の体制で、どういうスケジュールの中で
行われたかがわかるからだ。

出所の確かな、信頼のおける情報に照らしてみる。
それが彼女の納得ラインなのだろう。

ただ「情報」というものは、
情報操作という言葉があるとおり、
送り手の意志が入り込むことがある。
例えば、アンケートなども、
取り方、集計の仕方ひとつで、
必ずしも客観的ではないことがある。そこで、

「事実」で判断する。
ということが必要になってくる。
本人、関係者に直接会って聞いてみる、
現物を見てみる、
現場をおさえる、など
自分の五感を使って確かめるということだ。
私は、自分の納得ラインをここに置きつつある。
知識より体験重視の私の性格に合っている。

ただ、事実は数字のように割り切れない。
いろいろな表情を見せる。
だれがうそを言っているか、
何が本当で、だれを信じるか、
判断の責任は、ふたたび自分にかかってくる。
失敗を積みながら、五感を磨いていくしかない。

ふしぎなことに、噂の最中、
だれも、私に直接、事実を確認しにくる人がいなかった。
これはなぜだろう?
あることに気づいた。

●メディア力の回復を待って発信する

何を言うかうより、誰がいうか、が重視されることがある。
ふだんから、
「口をひらけば小言ばかりでうるさい」と思われている人は、
「あのね…」と話し始めただけで、たとえ良いことでも、
周囲は「よくないことだ」と警戒してしまうだろう。
自分の発言を聞いてもらうには、
ふだんから「あの人はいつも役立つことを言ってくれる」
というように、
自分というメディアの信頼性を高めていく必要がある。

悪いうわさがたっているとき、
人間そのものが疑われている。
つまり、その人のメディア力が下がっているのだ。
だから、周囲の人は、
疑いのあるメディアから、直接、真実を聞こうとはせず、
周辺にさぐりを入れる。
周辺は真実を知らないから、ますます問題はややこしくなる。

自分というメディアが疑われているとき、
どうしたらいいのだろうか?

メディア力が下がっているとき、
積極的な発言をしたり、派手なパフォーマンスをすることは、
大雨の日に外へ出て、畑を耕すような、
ひどく効率が悪い作業だと私は思う。

テレビなどで、悪い評判がたった人が、
自己アピールをするのだが、
言えば言うほど、悪く取られてしまうのは、
周囲がバイヤスをかけてみているからだ。

そういうときは、少し、辛抱する。
というのが私の考えだ。人の噂も75日というから、
そのくらいまで。
その間は、つらくても、時間や約束事を守り、
周囲に誠実な態度で接し、できるだけ自然に過ごす。

そうやって時に語らせ、事実に語らせ、
何かよい成果のひとつもあげて、
メディア力を回復してから、発信をする。
晴れた日に、一気に畑を耕すようなもので効率がいい。

もちろん、ものによっては直ちに釈明をした方がいいものもある。
そのタイミングを失ってはいけないのだが、
その際も、まわりから信頼されている人を間に立てる、
信頼されているメディアで発信する、
客観的な証拠を固く積み上げるなどの工夫が必要だろう。

周囲がなんと言おうと、自分に聞いてみて、
自分がそんなことをしていないのだから、
一番身近な存在である自分は、自分を信じている、
真実は自分の中にある。
こんなに心強いことはない、落ち着いて考えることだ。

●みんな不安なんだ

うわさと言えば、関東大震災のときのデマを思う。
朝鮮半島出身の労働者が井戸に毒を投げ込んだというデマを、
一般人から警察まで信じきってしまい、大虐殺が起こる。
大うそを、信じてしまう人、集団、状況には、
「不安」がぴったりよりそっている。

そういう目でみてみると、
朝から、昼から、深夜まで、こんなにワイドショーがはやり、
正面きって「うわさ」が売り買いされる
今の日本人は、よほど不安の中にいるのかと思う。

自分の向かうべき不安から目を紛らせるために、
自分以外の対象に非を向ける。
でも、それは、問題解決を遅らせるだけで、
不安はなくならない。

明日はどんなうわさが、世の中に、職場に、ご近所に
出回るのだろうか?
自分はどんな不安から逃れるために、
人の不安の産物に、ふりまわされるのだろうか?

2001-04-25-WED

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