YAMADA
おとなの小論文教室。
感じる・考える・伝わる!

デザインって何ですか?−読者と山田の往復メール

私はパッケージデザインにあこがれて、
仕事にしている者です。

5年前、就職難のまっただなかで、
運良く決まった広告代理店1カ月で飛び出しました。
その場所には、人の悪口、足のひっぱりあい、
自己主張が強いだけの
「楽しんでモノを作る」空気がなかったから。

でも、あこがれは捨てきれずに、
「あの方に相談したら、
きっと私のあこがれている世界に
つれていってくれるかもしれない!」
という直感で相談に行ったところ、
そのYさんの事務所で働けることになりました。

Yさんは、本当に素晴らしい方で、個人を尊重して、生かす、
やる気がグングンわいてくる空気をもった方でした。
最初からデザインを手がけさせてもらい、
それがパッケージ年鑑に入選して載ったりしました。
私は確信したのです。「ワクワク」は『力』なのだ。と。
周囲の人たちも、とても「モノづくり」に真剣で、かつ暖かく、
なんでも前向きにトライする雰囲気がみなぎっていて、
私はこの自分の居場所が大好きでした。

しかし、不況のあおりで。「居てほしい」といわれましたが、
負担になるのも申し訳ないと思い、独立しました。

まちかまえていたのは、予想どおり、
人の足許を見るようなデザイン料。
きちんとしたやりとりのない、時間と予算でくぎられた、
なんとも不自由な、すさんだ世界。 
でも、同業の彼と結婚して、一緒に事務所をしよう!
と考えていました。不安と希望の日々。
体はしんどいけれども、
だって、やっぱし仕事は「楽しい」もの。

そんなある日、私がとても尊敬して
目にかけていただいていた方から、
Xさんがスタッフを探している、というお話がありました。
迷いに迷って、彼との独立の約束も保留にして、
Xさんの事務所に行くことに決めました。
なぜなら、自分は事務所でのキャリアが3年しかなく、
場数もふめていない。
という事と、やはり年鑑に載るような仕事がしたいので、
そのノウハウを身に着けたい!
という欲があったからです。

Xさんは、CMにも出るような
商品のデザインもされていて、
すごいなぁ〜。あこがれるなぁ〜。
と思っていた人でもあったのです。

でも、現実はそんなに甘くありませんでした。
確かに私の望んでいた「志の高い」場所なのですが……。
 「好みの地獄」
徹底的に好きでないモノを否定する、
あの発言の多さはどうだ。
それぢゃあ、世の中の、人、モノ、いろんな事を、
ほとんど全て塗りつぶしてしまっているも同然ぢゃないか。
確かに、作品や仕事は素晴らしいけれども、
ナンテ息苦しい世界に住んでいらっしゃるのだろう…… 
コーヒーはこれ、誰それは、ダメだ。あの人は嫌い。
このデザインは好きぢゃない。あの音楽は嫌い、
服はこのブランドだけ好き……
あれはダメこれは無理……。

そんな狭い範囲の中で、何をさせたいというの?
わかちあう「ワクワク」は?
「楽しいモノづくり」の心は?
私は、わからない。
その人を喜ばすには、
私がXさん風のものを作ればいいのでしょう。
それが、スタッフの役目なのでしょう。
でも.……
「ここでは良いモノなんて作れないんぢゃないか?」
と、不安がよぎります。

やってもやっても、マイナスの空気しか感じられない。
少しずつ、周囲の人のおかげで
積み上げることのできた「自信」も、
失われつつあります。

一体、「デザイン」ってナンダ???
名をあげる為には、世の中で自由に
「デザイン」を仕事にしていくのには、
そんなに息苦しい「好みの地獄」が必要なのか?
マイナスの感情でもって、
作風を確立せにゃあいかんのでしょうか?

私は、今、「デザイン」って、
もしかしたらクダラナイものなのかも。
というマイナス思考に支配されています。
「クリエイティブ」って、
職になればなるほど、不自由なのかも。
ああ、私に『力』があれば……
ズーニーさん、どう思われますか?
(読者のDさんからのメール)
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Dさん、こんにちは。
ズーニ―山田です。

デザインって何? っていう問いかけに、
まず思い出した人物がいます。
私が尊敬するアートディレクターの新谷雅弘さんです。

新谷さんは70年代に、『an an』を立ち上げたお一人。
当時の『an an』は女性の新しいファッション、生き方を
創って、引っ張っていってくれる雑誌で、
例えば、ひざたけスカートに
パンプスが主流だった女の子たちに、
「ジーンズ」をはかせたのはこの雑誌です。
雑誌から文化が生まれ、広がり、時代を創っていくさまは、
幼かった私にも鮮烈な印象を残しています。
エディトリアルデザインそのものを切りひらいて
こられた方だと思います。

新谷さんは、また、
アスファルトの中からはえてくる草など、
ちょっとしたものからすぐ遊びを創ってしまうので、
1、2時間、街歩きをするだけで、
まわりを楽しくしてしまう、
「創って生きる」達人でもあります。

さて、その新谷さんが、
「デザインって、もしかしたらクダラナイものなのかも」
というDさんの疑問に似たような疑問を、
かなり長く持っておられたということを思い出しました。

工芸高校で、コップをデザインするという課題が出た。
新谷さんはコップなんてありすぎて、
これ以上新しい形なんて考えつかない。あげく、

「水さえ飲めたら
器の形なんてどうでもいいのではないか」

と思いはじめる。
どうでもいいとなると、形は一種類で十分。
新しい形を創り出すデザイナーは不要になる。

デザインを学び始めたとたん、
不要の仕事とは思いたくない、
でもあまりに基本的すぎて人に聞けない。
新谷さんは、そのまま社会人になっても考え続けます。

ある日、思い切って師匠である堀内誠―さんに、
長年の疑問をたずね、次のような答えを受け取ります。
 
「ここに形の異なる2つの水道の蛇口があるとするよね。
ひとつは公園や校庭の隅などにあるやつ、
もうひとつはホテルなどにありそうな
細くて長い放物線を描いたようなエレガントな形。
まったく同じ水道水が出てくるとわかっていても、
どっちの形から出る水がおいしそうに感じられるかは
いうまでもないだろう」と。
  
私は、この話がとても印象に残っていたので、
Dさんの疑問を、新谷さんはどうみるだろう? 
まず、聞いてみることにしました。
(もちろんDさんの氏名などプライバシーは伏せて
ますのでご安心ください。)

現在は『マッツ』のアートディレクションに忙しい
新谷さんから、次のような答えが返ってきました。

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山田さん

ほんとにお久しぶりでした。
ご相談の方の悩みになんとお答えしたらいいか
未だ分かりませんが、すこしでもご参考になれば・・・。

難しいと思いますのは、人間関係のいろいろあるなかで
一方の側のお話だけでの判断が難しいということです。
これはこども同士のいさかいでも同じ事ですね。
ですからもしご相談したいことが
人間関係のことでしたら
ハッキリ言ってお答えはできません。
またある人の美意識や人間観、生き方については
感想すらも第三者が軽々しく言うべきでないと考えます。

ただこんな時
ぼくだったらどう考えるかは言ってもいいでしょう、
だってぼくのことですから。
ぼくは高校生のころに何かの本で次の言葉にぶつかって
いろいろあった時に諦めたり、
手がかりにしたりしてきました。
それは

『いま、その人の身に起こっていることは、
その人にふさわしい』

という言葉です。
この言葉は自分勝手に不養生な生活を続けた結果
入院しなければならない事態に陥り、
周りに多大なる迷惑をかけ、
病院のBedの中で思い返した時など
はかなりこたえたキツイことばです。

そこまでの事態でないときでも苦境の原因が己自身に
あるとは思いたくないのが人情ですが、
そう思うことが一番の解決法でしたし、死の床まで
持っていかざるを得ない言葉だと今は感じています。
自分自身をまず突き放すこと、もしかしたら
そこに新しい道があるかも知れません。

新谷雅弘

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ふたたびズーニ−です。

『いま、その人の身に起こっていることは、
その人にふさわしい』
私はこの言葉を聞いて、なぜかやすらぎました。

私は、企業でかなり自由に編集をしていて、
立場も古かったし、仲間にも恵まれ、
そこは、クリエイティブで
あたたかな自分の居場所でした。

自らそこを出て、フリーになり、
より自由のきかない立場で、
ときに、へこへこにへこんで、
いったい何やってんの?
自分でもわからなくなる時があります。

そういうときは無理をせずトーンを落とし、
自然のやる気が回復するまで待ちます。
すると、世の中、うまいことできてるなあ…
という気がしてきます。

現在の状況には、
偶然にみえるものも含めて、
すべてどこかに自分の選択や、
意志や、くせが、混じっています。
この環境は、もしショボくても、どっか自分に似ている、
そう思うと、なんか、いとしさがわいてきます。

自分の選択が表面的だったり、
自分がまわりをわかる能力が足りなかったりすると、
うまくしたもので、自分への痛みとなって
跳ね返って知らせてくれるのです。

痛みは、
自分が成長しないといかんとこを、
ちゃんと教えてくれる、
必要なものであり、
これはなかなか
便利なシステムのような気がしてなりません。

痛みは、例えば、わたしだったら、
企業の強い立場で見えなかった側の「人の気持ち」のような、
成長段階ですっとばしてきたことに、
気づかせてくれるものだったり、

個人経営者の孤独とか、
どんな組織、どんなリーダーであれば
人を生かしてあげられるかというような
将来事務所をもったりするときの
ビジョンになるようなことを、
切実に考えさせてくれるものだったりします。

たぶん、なんか自分で気付いて動き出すまで、
この痛みはちょくちょくあるだろう。
痛みを感じるから、自然に動き出せるだろう。
自分が自然に育ったとき、その痛みは消えるだろう。

だから、フリーランスとして
歩きはじめたばかりの自分に起こる心の痛みの中に、
お宝がいっぱいかくされているように思うのです。

そういう意味で見ると、
『いま、その人の身に起こっていることは、
その人にふさわしい』
とは、自分にとって必要な、
結果的にはいいことしか起きない(超訳ズーニ−)、
とも思え、きびしい言葉なのに、どこかほっとするんです。

だから、私は、今の私にしか感じることのできない痛みを、
ありがたくいただいておこうと思っています。

わずか5年の間に、代理店と自営、
そして2人の個性の異なるデザイナーの事務所を
体験されたDさんは、私が知りえない、
いろいろな現場をみてこられたのではないでしょうか。
あこがれるようなデザイナーのもとで2度も働けたのも、
偶然ではなく、Dさんの
意志や資質や力量あってのことでしょう。
その経験も、さまざな痛い想いも
決して減ることのないDさんの財産だと思います。
その中から、どんなお宝が見つかるでしょうか。
私はそんなことを考えました。

メールを出したら、
新谷さんからこんな追伸がきました。
最後にあげておきます。
ではまた来週、水曜日にお会いしましょう。

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ひとつ
この件で言い忘れています。
それは
モノスゴクいいことがあった時も
「ふさわしい」
と思いたいことです。
ものを作る人は「謙虚な自信家」と
よくいわれるのですが
そんな意味でいってるのかもしれません。

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2001-01-17-WED

YAMADA
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