江戸が知りたい。
東京ってなんだ?!



 

ほぼにちわ。今回から11回にわたり、
江戸東京博物館で開かれた
darling と芳賀徹さんの公開対談をお届けします。
芳賀徹さんは、「平賀源内展」の監修者であり、
京都造形芸術大学の学長をつとめるとともに
岡崎市美術博物館の館長も兼任されているかた。
たいへんな饒舌で、源内の魅力を、
たっぷりと!!! 語ってくださいました。
聴いているうちに、源内の住んだ時代の
お江戸神田白壁町にタイムトリップしてしまうようでしたよ。



「平賀源内展」は、江戸東京博物館の開催期間は
もうじき(1/18までで)終了してしまいますが、
このあと、夏までかけて、仙台・岡崎・福岡・香川を
巡回します。お近くのみなさま、
ぜひ、この対談を読んで出かけてみてください。
きっと新しい発見がありますから!!
ではまず第1回は、若き源内の才能と、
それを見いだしたお殿様の話です。

第1回
殿様に見いだされた源内。

糸井 こんにちは、今日はよろしくお願いします。
芳賀先生がいらっしゃると、
僕は、とてもラクなんです。
何を訊いても答えて下さるから。
昔、先生にお訊きしたことがあるのは、
与謝蕪村でした。
芳賀 蕪村、わたくし大好きです。
ちょうど同じ時代ですよ、源内と。
源内は1728年生まれ、
蕪村は1716年ですから、
蕪村のほうがちょっと上ですけれど
蕪村が亡くなるのが1783年で、
源内は、1780年に亡くなりますから、
ほんとに重なるんですね。
糸井 源内はのちに江戸に暮らしますが、
生まれたところはどこですか?
芳賀 讃岐の志度です。
讃岐は、ちょうど源内のころ、
松平頼恭という殿様が藩主で。
彼は讃岐藩の中興の祖と言われ、
たいへんな賢君でした。
殖産興業をひじょうに進めた人です。
讃岐の三白というのは、
塩と砂糖と米ですね。
糸井 白い砂糖、白い塩、白い米。
芳賀 それを讃岐の名物にする
きっかけをつくったのがこの殿様です。
で、その殿様に直接に仕えていたのが
平賀源内なんですね。
糸井 ということは、源内は、
その殿様の影響を、実は受けてますね。
源内がどれくらい、素晴らしい人間で、
そのお殿様がどれだけ
源内をかわいがって役に立てたかって
いうことについては、
いっぱい書籍に書いてあるんですけど、
「そんな殿様がいたからこその源内」
っていうのは‥‥。
芳賀 あ! ひじょうにあると思いますね。
頭からいいことを言いますね。
糸井重里さん。
糸井 何をおっしゃる(笑)。
芳賀 確かにそうです。
源内は少年の頃から、
いろんなことを調べるのが好きでした。
特に薬草を調べるのが好きで。
まだ少年の頃から、
あの男の子は良くできるというので、
松平の殿様が、特別に召し出して、
今もあります高松の有名な栗林公園
(りつりんこうえん)。
隅っこに薬草園があって、
そこに取り立てたんですね。
糸井 ええ。
芳賀 ほんとは源内はそんな家柄じゃなかったんです。
高松から電車で30分ぐらい行ったところの
志度という町の、ほんっとの下っ端の、
足軽の息子でした。
お寺番をしてたそうですね。
この殿様は、そういう家の子を
見立てたわけですね。
糸井 人が何を喜ぶかっていう価値観の源を、
その殿様がつくったとも言えますね。
芳賀 うん、ほんとにそうかもしれませんね。
源内を見込んで、これは良くできる少年だと。
どうも薬草のことが好きだし、
ずいぶん若いのに詳しい。
じゃあ、栗林公園の薬草園に、
薬草係として取り立てようというので、
志度から呼び寄せて、
高松本藩の薬草園の殿様直々の役職に
つかせたわけなんです。
小坊主っていうんでもないでしょうけど。
糸井 「いてもいいよ」っていうやつですね。
書生みたいなものですね。
そこに源内は長く?
芳賀 源内が20歳近くなったころに、
再度、殿様の見立てがあるんです。
あいつはやっぱり良くできる、面白い。
よく勉強をするヤツだ。
あれをちょっと援助して、
長崎に留学させよう。
糸井 のちに源内は江戸に住みますが、
長崎に行ってからの江戸なんですね。
芳賀 そうですね。宝暦2年、1752年に、
源内が初めて、その殿様と、
地元のちょっとお金のあるパトロンの支援で、
長崎に留学して。
だいたい1年あまりいたようです。
糸井 はぁ、はぁ、はぁ。


【日本山海潮陸図:石川流宣】(部分/文字は編集部で加工)

芳賀 だからやっぱり殿様の引き立てが
ひじょうに効いておりました。
やっぱり殿様はそれだけの眼力があり、
若者の才能を見込んで、それを取り立てる、
そういう才覚があった人なんですね。
糸井 そうですね。
芳賀 それは今でも大事ですよね。
若い人の中にいい才能を見つけて、
それを取り立ててやるっていうのはね。
糸井 プロデューサーですよね。
芳賀 うん、プロデューサー。
上に立つべき者のやるべきことですね。
自分は何もしないでいいから、
優秀な者を見つけて、それにいい仕事をさせる。
大事なことです。
あの頃の殿様っていうのは、
なかなか偉い人が多いんですよ。
糸井 源内ぐらいの時代になると、
武術だとか力技の部分が役に立つことが
少なくなってる時代ですよね。
芳賀 まさにそうですね。
確かにもう徳川の平和が確立されていました。
糸井 そうなると、学問。
芳賀 代わりに学問。儒学をやるか、
本草学のような、今でいえば博物学、
自然学をやらせるか。
あるいは地理をやったり蘭学になってきますね。
1603年に、江戸幕府が開府されて、
大阪冬の陣・夏の陣があってから
源内の時代までに100年以上経っているわけです。
糸井 そうですよね。うーん。
芳賀 もう、今、我々には
第二次世界大戦の記憶も‥‥
糸井さんは憶えてるかな?
あなたは戦後でしょ?
糸井 ええ、実は。
芳賀 あ〜、かわいそうに。
わたくしは戦前生まれですから、
よく憶えておりますが、
その記憶さえもなくなってきているわけですね。
源内の頃は、戦争はもうほんっとに、
英雄談に過ぎなかったような時代に
なっていたんですよ。
糸井 もう、刀も細身になっちゃってる時代ですよね。
芳賀 だから、肖像画の源内も、
丁髷は細い本多髷というような、
格好だけつけてる侍でした。
源内はほんとに刀振るったら
人切れたかなぁ?

【平賀源内肖像:木村黙老著『戯作者考補遺』】
糸井 弱いんでしょうね、やっぱり。
芳賀 あんまり強くないですね、あれはね。
糸井 そういう記録はないんでしょうか。
芳賀 ありません。人を殺したとか
殺されかかったとか、そういう記録は。
あ、最後に人を殺しましたね。
糸井 あ、最後に。
芳賀 そのときだけですね、刀を振るったのはね。
糸井 つまり、使い慣れないから
殺しちゃったかもしれない。
芳賀 あー! なるほど。面白いこと言いますね。
そういう説は今までなかった。
糸井 そうですか?
なんか、褒められて嬉しい(笑)。
芳賀 人を殺した理由について、
源内は、自分がせっかく考えていた、
ある家の設計図を、
自分の家に出入りしていたどっかの小僧さんが
盗み見したというので、それに腹を立てて、
盗まれたと思って傷つけたということに
なってますが。でも、殺すなんて、
そのつもりはなかったかもしれない。
糸井 脅かすだけのつもりだったかもしれませんね。
芳賀 はい、下手で、ほんっとに刀振っちゃって、
刀重たくて、で、相手は死んじゃった。
あるいはそうかもしれませんね。
これが源内殺人事件の糸井説。
会場 (笑)

あすは、源内の思いの
「核」にあったものについてのお話です。
お楽しみに!

2004-01-09-FRI
BACK
戻る