担当編集者は知っている。


『おばあさんの知恵袋』
著者:桑井 いね
価格:¥ 1,365(税込)
発行:文化出版局
ISBN-13:978-4579304202
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『婦人公論』の鼎談でお会いし、
糸井が、「ダーリンコラム」
「ぼくの好きなかっこいい年上」と記した、
家事評論家・西川勢津子さん。
多数のご著書をおもちの西川さんが、以前
「桑井いね」という、ペンネームで出された本が、
このたび、ステキな装いとともに復刊になりました。
大正から昭和初期にかけての暮らしぶりを綴った本書。
家族のために、工夫に工夫を重ねられた家事‥‥
時代がちがういまでも、大事なこころを教えてくれます。
昔ながらの上品な言葉遣いや、
気持ちのいい、はっきりとした物言いも魅力的です。
この本を担当された文化出版局の
柴谷さんにお話をうかがいました。
(「ほぼ日」小川)



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担当編集者 /
    文化出版局 柴谷啓子


ある日、声の様子から、
20代かな‥‥と思われる読者の方から、
お電話をいただきました。
この、「担当編集者は知っている」に掲載する
本を探していた「ほぼ日」の小川さんが、
『おばあさんの知恵袋』を書店で
買い求めてくださったとのこと。
嬉しくて、思わずこちらから
いろいろと尋ねてしまいました。
というのも、

「ひとりのおばあさんをご紹介します。
 主婦としてつつましく生きてきた、
 典型的な明治のひと女(ひと)、いねさん。
 むかしの生活、家事の工夫を振り返る、
 おばあさんの思い出話に、
 しばらくお付き合いください。」


というプロローグで始まる本書は、
昭和天皇と同じ年生まれの桑井いねさんが主人公。
記憶力抜群で、お話上手な“いね”さんが、
昔語りに、大正から昭和の戦前まで、
東京・世田谷に住んだ桑井家の暮らしと、主婦として
心を砕いた家事の工夫を振り返ったものです。

――若い方が、なぜ、この本に興味を‥‥?

「どこか、懐かしいような雰囲気の、
 本のたたずまいに惹かれ、手に取ってみたんです。
 著者の桑井いねさんの名前は知りませんでしたが、
 カバーと、中のイラストが気になり、
 装画・挿絵のクレジットに、
 山本祐布子さんの名前を見つけて‥‥」

――山本さんの絵を知ってらっしゃるの?

「はい。山本さんの絵が好きだったので、
 ああ、やっぱり! と思って。
 そして、頁を繰ってみると、
 タイトルに“知恵袋”とあるけれど、
 ハウツー本ではなく、読み応えのありそうなエッセイ集。
 なんだかいい本の匂いがしたので買って帰りました」

まあ、いい本の匂い‥‥とは、
ますます嬉しくなる表現です。
そして、彼女が自宅のリビングでこの本を読んでいると、
お母さんがしきりと首をひねったそうです。
「おかしいわね、これ、新しい本‥‥?
 昔、そんなタイトルの本を読んだような気がするけれど、
 こんな装幀だったかしら、って言ってました」



グラフィカルな切り絵による、山本祐布子さんの挿絵
(本書「おかき」より)


受話器をおいてから、この日一日、
とても幸せな気分でした。
こんな若い人も読んでくれたらいいのになぁ‥‥と、
本作りをする上で思い描いていた読者が、
受話器の向こうに、実在したからです。

小川さんのお母さんが首を傾げるのも、もっともです。
本書は、著者が東京新聞に連載したものを、
1976年に文化出版局が単行本として刊行し、
話題を集めた本です。
76版を重ねるロングセラーとなりましたが、1998年に絶版。
昨年、これまで絶版とした本の中から
再版を望む声の高いものなど、
良書を掘り起こして刊行するプランを進める中で
復刊が決まり、担当を命ぜられました。

仕事の第一歩は、著者・桑井いねさんのもとへ
復刊について相談にうかがうことでした。
しかし、お目にかかったのは、家事評論家として知られる
西川勢津子さん。
実は、本書のあとがきでも告白しているように、
『おばあさんの知恵袋』は、西川さんが50歳のころ、
「桑井いね」のペンネームで書いたものです。
なぜ、ペンネームを使うことになったかの経緯は、
このあとがきに詳しいので、ぜひ、読んでください。
『おばあさんの知恵袋』は
100冊を超える著書のある西川さんにとっても
愛着の深い一冊とおっしゃって、
復刊をとても喜んでくださいました。

ちなみに、初版の刊行当時を知る先輩編集者に聞くと、
西川さんは既に家事評論家として著名で、著書も多数あり、
無名の著者「桑井いね」ではなく、
本名の「西川勢津子」の名前で刊行したほうがいい
(つまり売れるのではないか)‥‥という意見が、
当時の販売部から上がったそうです。
が、西川さんが明治生まれの“いね”さんになり切って、
いきいきと語る世界を大切にしたいと、
ペンネームでの発行に踏み切りました。
まず、戦前の暮らしを知る世代が
懐かしさに手に取ってくれ、
それが口コミでじわじわと広がって、
幅広い世代の支持を得て版を重ね、
54万部を超すベストセラーとなったそうです。
当時は活版印刷でしたから、版を重ねるうちに
活字が摩耗し、印刷所から
オフセット印刷にしてほしいと申し入れがあったとか。
改めて手元にある初版を手に取ると、
紙面に活版の圧によるかすかな凹凸があって、
味わいがあります。

本が売れ始めると、著者の桑井いねさんへ興味が集まり、
問合せや取材申し込みが編集部へ寄せられました。
「いねさんはご高齢ですので、取材には応じかねます」と、
編集部でも、あたかも実在の人物であるかのように
対応したそうです。
それ以上にはあれこれ詮索されることもなく、
おおらかな時代だったのですね。
著者探しは、数年後に、西川さん自身が
筆者であることをカミングアウトなさって決着しました。

今回の復刊にあたって、著者とともに何度も読み直し、
一部加筆訂正を加えていただきました。
“いね”さんは、お粥を炊いたり、梅干しを漬ける一方で、
ママレードやブラマンジェを作ったり、
子どものお稽古事の費用や受験に頭を痛めたり、
ふき掃除を1日2回し、きものの洗い張り、
布団の仕立て直しに手間ひまを惜しまず、
化粧水のベルツ水や
コールドクリームまで自家製だったこと‥‥など、
今の暮らしに比べると、家事の多様さ、
煩雑さには、驚かされます。
たとえば、蚊帳の洗濯。

「さて、蚊帳は
 九月中旬になりますとそろそろいらなくなり、
 蚊帳をしまうのは、
 朝晩つったりたたんだりする煩わしさから解放され、
 秋の涼しさとともに
 うれしいもののひとつでございました。
 蚊帳は、蚊をつぶしたときにつく
 血のあとなどのしみを、つまみ洗いをしたり、
 オキシフルでふいたりして
 きれいにし、よく干してしまいますが、
 二年か三年に一度は、
 ほどいて洗ったものでございます。」
(本書より)

この後、洗濯方法について
詳細に語られているのですが、
引用が長くなるので要約すると、
蚊帳の縁布とつり手をはずし、
天井部分と周囲をほどき、五つぐらいのまとまりにして、
浴槽か樽に洗濯ソーダを入れての踏み洗い。
三回ゆすいだあと、
さらし粉で漂白し、もう一回水でゆすいで、
糊つけをして乾かし、生乾きのときに取り入れて
敷きのしをし、また乾かして仕立て直しという手順です。

「昭和も二桁に入りますと、
 白洋舎が蚊帳の丸洗いをしてくれまして、
 わたくしも一度は出しましたが、
 なにか気がとがめまして、
 やはり自分で洗っては縫ったものでございます。」

(本書より)

蚊帳を知らない方もいるかもしれませんね。ほかにも、
サッカリン、おはばかり、ちょうず鉢、土用干し‥‥
などなど、にわかにはピンとこない言葉が
たくさん出てきます。
でも、すぐ、そんなことは少しも苦にならなくなります。
著者の語りの巧みさにすっかりのせられて、
ついつい引き込まれ、
昭和初期の桑井家の台所に紛れ込んだような、
暮らしを覗いているような気分になります。
西川さんのお話では、
“いね”さんのモデルは、西川さんのお母さまや伯母さま、
ご近所付き合いしていた奥さま方で、
子どものころに見聞きしたことが、裏付けになっています。



本書「土用干し」より
©山本祐布子

家事の大部分を電化製品が担うようになった現在、
いねさんが日々心を砕き、積み重ねてきた
暮らしの知恵や工夫は、
今の暮らしに即、役立つノウハウではありません。
しかし、家族を思って、
家事に手間ひまを惜しまぬ心のありようや、
物を繰り回して大切にする姿勢など、
傾聴すべき点が多くあります。
それはまた、祖母や曾祖母たちが
こんなふうに家事をしていたのだと、
アーカイブス的な新鮮な面白さと価値があり、
若い世代にこそぜひ読んでほしい本です。

その意味で、復刊にあたっては、装幀を一新しました。
デザイナーの若山嘉代子さんが、
懐かしさと温もりがありながら、
若い世代も興味を示すよう、
斬新なデザインにしてくれました。
それが功を奏したのでしょう。冒頭に触れたように、
20代の読者から問合せの電話があったのです。

「あの〜、書名の手書きの文字は、
 もしかして、西川さんの字ですか」

――そこにも気付いてくれるなんて‥‥。
  そう、85歳の西川さんの肉筆です。



ぬくもりをかんじる西川さんの手書き文字


あとがきの元原稿(400字詰め原稿用紙に鉛筆で手書き)を
読んだ若山さんが、
「いい字ですね。ぜひ、西川先生に書いてほしい‥‥」
とリクエストしてのことです。
本文の各章の題や57篇の見出しも書いていただきました。
「おや、まあ、こんな私の下手な字でもよければ‥‥」
と照れながらも、机に向かい、
ひとつひとつ丁寧に書いてくださったときの、
西川さんの横顔は
一瞬、夏休みの宿題を一心にかたづけている、
少女のようでした。


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『おばあさんの知恵袋』
著者:桑井 いね
価格:¥ 1,365(税込)
発行:文化出版局
ISBN-13:978-4579304202
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2008-08-05-TUE

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