Drama
長谷部浩の
「劇場で死にたい」

番外編

生きることの感触
The Scene of Being Alive
平田オリザ、坂手洋二、永井愛、鈴江俊郎、
マキノノゾミ、鐘下辰男の劇作をめぐって


この原稿は、4月に紀伊國屋書店から発行された
『HALF A CENTURY OF JAPANESE THEATER
 1990s Part1』の
巻頭論文として書き下ろされたものです。
英文のタイトルは、
"The Sense of Being Alive:
Japanese Theater in the 1990s"です。

海外向けに日本の現代戯曲を英文で紹介するために、
日本劇作家協会によって企画され、
一冊の本のかたちになりました。
海外の図書館や関係の機関に、
非売品として寄贈されるので、
日本文はとりあえず発表の機会がありません。

劇作家協会のお許しをえて、
「ほぼ日刊イトイ新聞」に掲載します。

収録されている戯曲は、以下の通りです。
平田オリザ『ソウル市民』
坂手洋二『くじらの墓標』
永井愛『時の物置』
鈴江俊郎『髪をかきあげる』
マキノノゾミ『東京原子核クラブ』
鐘下辰男『寒花』

平田さん以外は、去年私が話を伺って本にまとめた
『盗まれたリアル 90年代演劇は語る』に
収録できなかった劇作家たちです。
この機会に戯曲を再読し、考え直すことができて、
刺激的な仕事になりました。
翻訳のボイド・真理子さん、事務局の川端亮子さんに、
この場をかりてお礼を申し上げます。

かなり分量があるので、ネット上で読むのは
しんどいでしょう。
とりあえず、ハードディスクに落としてから、
暇をみつけて読んで下さればうれしいです。

この英文のシリーズは、年代をさかのぼるかたちで、
継続するそうです。
問い合わせは、
劇作家協会 TEL 03-5790-7027 FAX03-5790-7075

文化庁委託の平成10年度芸術創造活性化事業の調査研究事業
「日本の現代戯曲の翻訳・海外紹介に関する調査研究」の
成果として、
「HALF A CENTURY OF JAPANESE THEATER 1990s Part1」は
出版されました。


第1章

時代は狂乱のただなかにあった。
80年代の終わり、
人々はバブル経済の夢に酔いしれていた。
85年のプラザ合意を反映した金融緩和政策のために、
日本では低金利が長くつづき、
株式や土地に投資が集中した。
89年、11月末には、
日経平均株価は37,268.79円をつけた。
利に向かって狂奔する日本人は、
絵画やゴルフ会員権にまで投資の手を伸ばし、
資産価格は日本経済のファンダメンタルズを
上回り急騰していった。
東京はこれまで経験したことのない
都市文化に浮かれていた。
スクラップ&ビルドの精神によって
突き動かされた人々は、木造家屋を徹底して破壊し、
空き地という空き地を地上げして、
ビルディングを建設した。
何をおいても資産価値を上昇させるのが
時代の要請であった。

劇場も例外ではない。
80年代から90年代にかけてに開場した劇場の
ほとんどはビルディングの一部に組み込まれていた。
スパイラル・ホール(85年)、近鉄劇場(85年)、
銀座セゾン劇場(87年)など、
ホテル、オフィス、商業施設に併設されている。
例外としてあげられるのは、
東京パナソニック・グローブ座
(88年、現在、東京グローブ座と改称)で、
独立した建物であり、1階がそのまま舞台に通じていた。
この劇場の主体は西戸山再開発事業団。
公務員宿舎の立て替えにともなって、
三菱地所などの資本を受け入れ、
「民間活力導入による国有地再開発第1号」
とされた事業である。
マンション群を建設するとき隣接した敷地に、
その事業の正当性を誇示するかのように、
シェイクスピア専門の劇場として作られた。
運営にあたっては、当初、松下電器がスポンサードし、
RSC(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)をはじめ
ヨーロッパのさまざまな劇団に来日公演の
機会を提供するばかりではなく、
外国人演出家を招聘し
日本人の俳優との共同作業がなされた。
採算ベースにのりにくい公演を持続的に行った点で、
バブル経済が東京の演劇に対して行った
恩恵のひとつだろう。

1989年12月29日の大納会では、
東証平均株価は38,915円の史上最高値を示して、
80年代は終わった。
しかし、バブルの夢もそこまでだった。
株価は翌90年10月1日には、
2万円を割り込む場面さえ見られた。
バブル経済はあっけなく崩壊し、
長い不況の時代が私たちを待ち受けていたのである。

90年の時点で、東京の演劇シーンの中核にあったのは、
小劇場演劇である。
60年代には、安保闘争や学園紛争を背景に、
社会全体が変革の波に襲われた。
演劇もその例外ではない。
当時、現代劇の分野では支配的だった「新劇」に対する
アンチテーゼとして小劇場運動は起こり、
ジャーナリズムによって、アンダーグラウンド演劇、
略して「アングラ演劇」と呼ばれた。
「新劇」の成立は明治時代にさかのぼる。
イプセン、チェーホフなどヨーロッパ近代劇の
影響を受けて成立した「新劇」のテキスト中心主義は、
「アングラ演劇」によって否定され、
肉体の復権が唱えられた。
スタニスラフスキーに学んだリアリズム演技は
過去のものとなり、時間と空間を自在に往復する
奔放な劇作が、若い世代の圧倒的な支持を集めた。
その中心的な劇作家である唐十郎が、
70年に第15回岸田戯曲賞を受賞したのは
象徴的な出来事だった。
賞の発表雑誌である「新劇」も
タイトルとは裏腹に、「新劇」ではなく、
主に小劇場演劇の批評・劇作を掲載するように、
編集方針を転換したのである。

小劇場演劇の第一世代、
「アングラ演劇」と呼ばれた唐十郎、寺山修司、
鈴木忠志、佐藤信らは、日本の土着的な文化と通底した
重苦しい情念の世界を色濃く残していた。
それに対して、80年代に登場した
第三世代、野田秀樹、鴻上尚史、北村想らは
軽やかな身振りで、第二世代のつかこうへいが
小劇場演劇に持ち込んだ笑いの要素を積極的に取り入れ、
過剰な記号を舞台に振りまいた。
言葉遊びによってせりふが組み立てられ、
テレビ、CMの断片的なイメージが
舞台に取り入れられたのである。
一方で、80年代の東京の小劇場演劇を特徴づけるのは、
核戦争後の未来を思い描き、
都市の崩壊をシュミレートしてきた作品群だろう。
北村、川村毅(かわむら・たけし)、
生田萬(いくた・よろず)がその代表的な作家である。

こうした作品が生まれた前提には、
冷戦(cold war)がある。
第二次世界大戦後のアメリカ、ソヴィエト両大国を
中心とする二大勢力の対立は、
通常兵器にはよらない核兵器による恐怖の均衡によって、
かろうじて世界の秩序を保ってきた。
しかし、86年4月、
ソ連のチェルノブイリ原子力発電所の事故によって、
現実に放射能が世界にまき散らされた。
冷戦の均衡状態によってもたらされた
退屈な日常をまぎらわすために、カタストロフを夢見、
核戦争後の廃墟を描いた東京の演劇は、
この事件を境にして、
ゲームの終わりを宣告されたかのように思えた。
もはや、こうしたロマンティックな夢想に
遊んでいるわけにはいかない。
終わりのない日常を、ゲームによってやりすごす態度は
否定され、現実と直面することが求められた。
消費社会の爛熟のなかで、
行き場のない閉塞感ばかりが高まる。
89年には、天皇が崩御。
天皇の戦争責任は曖昧なままに、
昭和という時代が終わった。

世界に目を移せば、東欧の民主化が進行していた。
歴史が転換点を迎えつつあると人々は予感していた。
90年8月2日には、イラク軍は未明、クゥエートに侵攻。
新イラク暫定政権の樹立を発表。
30日、日本政府は多国籍軍に10億ドルの資金提供を決め、
湾岸危機が深刻化するなか、
社会不安が私たちのこころに忍び寄っていった。
翌年1月17日、多国籍軍はイラクを空爆し、
湾岸戦争に突入。
テレビのブラウン管には、爆撃の映像とともに、
流れ出した原油によって
生態系を破壊された鳥たちが映し出された。
バブルの崩壊と湾岸戦争によって、
日本のリアルが変わった。
今日と同じ明日がくる。
明日は今日より豊かな生活が待っている。
経済成長が支えてきた神話は脆くも崩れ、
人々はじぶんじしんを支える
新たな物語のために動き出した。
80年代の私たちを駆り立ててきた
消費への飽くなき欲望は、
バブルの崩壊とともに急速にしぼんでみえた。
じぶんじしんに誇りを持ち、
価値ある存在として社会から認められたいという願いは、
あふれるばかりの物にかこまれ、
飽食をほしいままにするだけでは
得られないのだという自覚が生まれた。

しかし、一方ではポスト冷戦構造の混乱から、
終末論やメシア待望に傾斜していく人々もいた。
90年2月、台頭してきた新興宗教のオウム真理教信者が
衆議院選挙に大量に立候補する。
メディアを通してその選挙運動が報道されたが、
麻原彰晃の着ぐるみを着た信者が、
教祖の名前を呪文のように繰り返す「マーチ」にあわせて、
有権者に手を振っていた。
候補者は全員落選するが、この悪夢のような
宣伝活動によって、90年代は幕を開けたのである。
10月、熊本県警は阿蘇に建設中の
オウム真理教の修行場を一斉捜査。
95年3月の地下鉄サリン事件で
麻原の犯罪が告発されるまで、
疑惑が日本をおおっていく。
93年8月には、細川首相を首班とした
非自民の連立内閣が成立して、自民党は55年体制以降、
独占してきた政権の座から追われた。
時代は激しく動きつつある。
柔軟でしたたかに見えた保守政権さえも、
いつは変わっていくと人々は実感した。
そして、95年1月17日には、
兵庫県を中心に阪神大震災が日本を襲った。
マグニチュード7.2。大規模な火災が発生し、
建築物も崩壊し、生き埋め者も続出、
阪神高速道路の高架は落下した。
死者は6430人を数え、約25万棟の住宅が全半壊し、
街は瓦礫におおわれた。
繁栄を誇った大都市神戸には、
第二次大戦の空襲による焼け跡以来、
崩壊した風景がふたたび現れたのである。
私たちは経済・政治・社会ばかりか、
天変地異の大きな変動に立ち会った。
何が確かで、何が不変なのか。
確乎たる価値軸など持ちようもない世界に、
否応もなく直面するようになったのである。

ジャーナリズムからは「アングラ演劇」という名称は
姿を消し、80年代には「小劇場演劇」と
くくられるようになっていたが、
90年代に入ると、舞台の上で語られる言葉が、
急速に力を失っているのをだれもが感じていた。
60年代から80年代にかけて東京の演劇シーンの
先端を走り抜けてきた小劇場演劇が、
観客にとって遠景に去りつつあった。
とりわけ60年代アングラ演劇の特徴ともいえる
絶叫に近い台詞術や肉体の酷使は、
からかいの対象とさえなっていた。
80年代に登場した野田秀樹、鴻上尚史らの
笑いを武器とし、速度感あふれる演出によって、
狂騒的な個のありようを訴える演劇も、
深刻な時代の到来とともに失速を余儀なくされた。
核戦争後の未来を思い描き、
都市の崩壊をシュミレートしてきた作品群が、
その社会的、政治的な背景を失って
根拠を失ったのはいうまでもない。
こうした時代の歩みとともに、
演劇の世界で頭をもたげてきたのは、
生きている感触をリアルに感じたいという欲求である。
近代劇に代表される「リアリズム演劇」が
復権したのではない。
この90年代にとって「リアルとはなにか」を
考える演劇が生まれた。

(つづく)

1999-05-23-SUN

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