デヴィッド・ルヴォー対談 だから演劇はやめられない。 ──昔の日々と、今の日々。──  ゲスト 宮沢りえ[役者と演出家編]/木内宏昌[演出家と劇作家編]
 
[演出家と劇作家編]その2 なぜルヴォーさんは日本語の演出ができるんだろう。

木内 ルヴォーさんはロンドンの小さな劇場から
ウエスト・エンドに行って、
ブロードウェイにも行かれました。
ブロードウェイに行って仕事をするのと、
日本に来るのとでは、
違うんじゃないかなって思うんですけど。
たとえば、言葉の問題ひとつでも。

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ウエスト・エンド(West End)
イギリスの首都ロンドンの一区域で、
劇場や文化施設がたくさん集まる、
娯楽・文化を中心とした商業エリア。
「シアターランド」ともいわれ、
数々のミュージカルが上演されている。
ニューヨークのブロードウェイと並び、
毎年、世界中から大勢の演劇ファンが
訪れる一大観光スポット。
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ブロードウェイ(Broadway)
アメリカ、ニューヨーク市のマンハッタンを
南北に走る大通り。一般的に「ブロードウェイ」
という場合は、タイムズスクエア周辺の劇場街
(Theater District)のこと。
年間を通して、数多くの演劇やミュージカルが
上演される観光地で、「ブロードウェイ」は、
世界中の演劇ファンにとっては、
ミュージカルの代名詞となっている。
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ルヴォー それがね、そんなに変わらなかったんです。
ブロードウェイとウエスト・エンドが、
やっぱり世界の中心地で、
プラスそれ以外の土地があるというのが
いわゆる世界の演劇界の論理ですよね。
けれども、あえて言うけれど、
それが理解できない。
木内 トニー賞に9回ノミネートされ、
作品賞は3つ獲っているルヴォーさんが!
ルヴォー そんな自分が言うけれど、
「これとこれが違う」という、
「これ」がわからない。
そもそもそこを分ける人がいることがわからない。
もちろん観念で考えたら、
それは違うんだろうなとは理解できるんだけど、
ぼくの体験と照らし合わせた時に理解できない。
自分の中で稽古場に通う生活は、
それがロンドンであろうと、ブロードウェイであろうと、
東京だろうと、変わりはないと思っています。
木内 実際に変わらなかった?
ルヴォー 変わらなかった。
もちろん、言葉の問題はありました。
言葉に関しては、自分の中で学んで
追いつかなきゃいけない部分は当然ありました。
けれども追いつかなきゃいけないのは、
日本人が言葉に対して持っている考え方を
知ることにおいて、です。
喋れる、言葉が理解できるかという問題とは
別の問題として存在しているんですよ。
木内 はい。
ルヴォー なぜかっていう説明をすると、
日本人って、自分以外の日本人、
たとえば若い世代の日本人が喋る日本語に対して
腹を立てたりって、よくあるじゃないですか。
木内 とてもよくあります。
「今どきの日本語」は流行もするけれど、
拒絶もされます。
ルヴォー でも、イギリス人の母国語である英語は、
いろんな形や音で喋られてるっていうのが当たり前です。
木内 そうですね、アメリカとイギリスと
オーストラリアでも違うし、
フィリピンやシンガポールでもインドでも、
それそれの国の英語がある。
ルヴォー そう、あまりにも多様であることに慣れているから、
喋られている英語に適応してしまうし、
それがいいとか悪いとか言わないんです。
他者が話す英語に対しての批判を持とうと思わない。
でも、日本語は英語ほど
国際的に話されている言語ではないということも手伝って、
アイデンティティの感覚っていうのがやっぱりより強いし、
重いんだと思う。
だからこそ言葉に対して日本人が持ってる感情は強く、
世代によって喋る日本語が違ったりすることが、
世代の間で緊張関係を生みやすいんだと思います。
木内 「今の若い連中は」みたいな(笑)。
ルヴォー もちろんそういう感覚は、イギリス人にもあるけれども、
日本人ほど強くはないんです。
日本では、日本語に対する論争というか、
語り合いというのがたくさん行われていて、
それはアイデンティティとすごく深くつながっている。
木内 うんうんうん。
ルヴォー だから、日本語って、言語を学ぶだけでは足りなくて、
日本人が日本語とどういう関係であるかということから
学ばないといけないんです。
となると、「すごく複雑だな、私にとっては」
ということになり、興味深いと思うようになり。
木内 たぶんルヴォーさんは、
日本人の俳優や観客以上に日本語のことを、
言葉のことをすごく意識されている。
単語のレベルまで考えて戯曲を読む演出家って、
ほとんど知らないです。
ルヴォーさんの稽古場を見ていると、
俳優のなかでつぼみが開いていくのを感じます。
ルヴォーさんは、日本語のすべては
理解されてはいないはずなのに、
「そのニュアンス違うよ」っていうことを、
演出をしながらすごく気づいていますよね。

▲『昔の日々』演出中のルヴォーさん (撮影:星野洋介)
ルヴォー そうです。
結構、みなさんがびっくりするくらい、
正確にわかっていると思います。
通訳の薛珠麗さん セリフの抜けがあった時、
私よりも出演者よりも、デヴィッドが先に気づいた
こともありました。
一同 うわ!(笑)
木内 耳‥‥ですか?
ルヴォー 「聞く」と「耳」は、ちょっと違いますね。
耳だけじゃないですし、
言葉だけの問題でもない。
言葉って、感情と結びついていますよね。
これはどの言語でもそうだと思います。
みんな感情を身に付けながら、言葉を身に付けると思う。
たとえば、子どもがふたりいたとして、ひとりが
「お前のそのなんとかって言い方、馬鹿みたい!」
って言ったとすると、
すごくその言葉に対して抵抗が生まれるじゃないですか。
その言葉に対して恐れみたいなのを持ってるなぁとか、
ある弱みを感じているとか、
ある何か特別な、それによって想起されるものを
持ってるなぁ、っていうのがわかりますよね。
この人の真意じゃないところで
その言葉を言ってるなぁと、わかる。
考えてみれば、不思議でしょう?
ぼくがその理屈みたいなものを自分で
完全に理解しているかって言ったら、
理解できているかどうか、わからない。
ただ、その俳優の中にね、
ぼくはチャンネルって言葉を使うんですけど、
それが開いて、
「その言葉しかないんだ」みたいなことになった時に、
すごく言葉の力って、開放できるんです。
木内 もうバーンとエネルギーが出る。
ルヴォー そう、日本語って、ぼくの理解だと、
爆発的な言語なんですよ。
子音の破裂の仕方とか、
音節がはっきり分かれているであるとか、
あるいは、言葉が捕らえどころがなく、
音に実感がこもってガッツリ喋るみたいな、その感じが。
木内 母国語には怠惰なものだから、
ぼくらはそんなこと考えずに喋っています。
ルヴォー 当然、生まれつきそうなわけだから。
たとえば「鐘」と「鈴」。
英語では大きくても小さくてもそれは「ベル」。
日本語はそこを分けますよね。
しかも「カネ」「スズ」──すごく響きが美しい。
それを英語にしてしまうと、
かえって外国人にはわかりにくくなるわけですよ。
日本語って、ぼくには美しい音楽に聞こえるんです。
長くつながるメロディは入っていないとは思う。
たとえばフランス語はメロディが長いけれど、
日本語の場合は、ちょっとスタッカート。
でも、パーカッションの楽器を使って、
豊かなメロディが奏でられるのと一緒ですよ。
木内 なるほど、スタッカート!
ルヴォー 日本語は世界の中で最も美しい打楽器の1つだと思う。
木内 なんてうれしい(笑)。
そういえば、ピアノも打楽器だと言われますね。
ルヴォー 完全にそうだ!
そして、ぼくは子どもの時からピアノが大好き。
ぼく、ピアノを下手に弾ける人なんですよ。
キーをただ叩いてるだけなんですけど、音が美しい。
木内 ベニサンの稽古場でよく弾いていましたね。
ルヴォー ちなみに、日本語を明確に理解できるような気がすると
最初に思わせてくれた作家が三島由紀夫なんです。
三島由紀夫に関しては、
他の作家の書いたものを聞くよりも、
より明確に、明瞭に聞こえたんです。
タトエバ‥‥。
木内 タトエバ(笑)!
ルヴォー サイゴノセリフ。
木内 最後のせりふ?
ルヴォー 近代能楽集『班女』という作品の最後のセリフです。
「スバラシイジンセイ」。
木内 素晴らしい人生。
ルヴォー ミジカイ、フカイ、カンタン。
そして、スゴクムズカシイ。
この言葉はすごく皮肉な使い方をされているわけです。

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近代能楽集『班女』(はんじょ)
三島由紀夫が書いた、能の謡曲を原作にした戯曲。
1995年、tptでルヴォーさんが演出。
『葵上』とともに2作品が併演された。
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木内 ああ‥‥!
「素晴らしい」という日本語は、
古典では真逆の意味を持っていますからね。
  (つづきます!)
2014-06-05-THU
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