ITOI
ダーリンコラム

<思いきりのいいキレイなねーちゃん>

いつも暮らしているところが、東京の、
いわばもっとも東京らしい場所だったりするもので、
「日本まるごと」の感じとズレた考えを持ちやすい。

ま、だいたい、ぼくなんかはもともとがイナカものだから、
望んで都会の渦のなかにいるわけで、
ズレようがどうしようが、これをやめるつもりもない。
いずれ、気持ちが変わったら、
東京都港区なんかじゃない場所に引っ越すだろう。
それまでは、変形した観光地のような青山に、
「ったく、しょうがねぇなぁ」なんて文句を言いながら、
暮らしていることだろう。

青山のあたりというのは、
基本的に「外出着」の人ばかりが歩いている。
汚れた格好や、安い服を着た人たちはもちろんいるけれど、
そういう人たちはそういう人たちなりに、
「汚れているけれど、カッコいい」ものを選んで、
それを着て青山にやってくるのだと思う。
それが、「都会」という場所の個性をつくっているし、
そういう場所だからこそ、
人々が「都会」に集まってくるわけだ。

みんなが、ちょっと気合いを入れてくる場所。
それが都会だ。
それぞれの人々が、親から生まれたような顔をせず、
方言に染まった口や、伸び放題のわき毛やらを隠し、
自分でつくった「個人」の顔をして歩いている。
そればっかり見ていると、それが普通のように見えてくる。
批判してないっすよ、それが好きだと言ってるくらいです。

ところが、こういう血縁とか地縁から
自由になったような都会を離れると、
「まるごと日本」の現実が、ちゃーんと目に入ってくる。
生粋の都会人を気取りたい人なら、
地方にしっかり残っている「日本」を、
「めずらしがったり懐かしんだり」して見せるのだろうが、
それは間違いってものだ。
実は、めずらしいのは「都会」のほうなのだ。

土地があって、家があって、親がいる。
誰だって、そういう所でしか
生まれたり育ったりはできないはずだ。
生粋の都会人なんてものは、ありえない。
空から落ちてきたのではなく親から生まれたかぎりは、
港区に住もうが、銀座で産湯をつかおうが、
「都会人」なんてものではない。

めずらしい場所に暮らしているぼくが、
たまに日本の別のどこかに旅行をすると、
「あ、そうだったのか。そうだよなぁ」と、
あらためて思うことがよくある。

先日、金沢に行ったときに思ったのは、
こういうことでした。
街のそこここに、ポスターが貼ってあるでしょう。
薬屋兼化粧品屋とか、ガソリンスタンドとか、
酒屋とか、いろいろの店のガラスとかに。
そして、そういうポスターのほとんどは、
「思いきりのいいキレイなねーちゃん」の写真なのだ。
これが、都会で見るときとちがって、
・・・効くんだなぁ!
親がいるとも思えない露出とか、
近所で見かけないような派手さとか、
地元のミス何とか町よりも美人だとか、
そこらへんでは見かけないファッションだとか、
もう、夢の国から飛び出してきたみたいに見える。
そのポスターの矩形の面積だけ、
「都会の出張所」みたいに思えるんだよな。
自由で、個人で、セクシーで、リッチでさ。

ぼくらは、そういうポスターをつくる側にいて、
そぅいうムードを「一瞬でもいいから」と完成させて、
あちこちにばらまく側にいたりするわけだけど。
それは、「夢」を製造しているわけだ。
これをくりかえしているうちには、
「思いきりのいいキレイなねーちゃん」よりも、
もっと複雑な「夢」をデザインしてみたりも
したくなるものなんだけれど、
そういう「複雑な夢」って、都会だけに貼るための
特殊なポスターなのかもしれないなぁと、思ったね。
日本ぜんたいは、だいたい、
自由で、個人で、セクシーで、リッチじゃないもん。

ちょっと、いろいろ考え直してみたいと思いました。
まさか、自分が「思いきりのいいキレイなねーちゃん」に
なれるわけでもないしなぁ。

2001-12-03-MON

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