ITOI
ダーリンコラム

<出会いと別れと運と縁。>

「出会いと別れ」という言葉には、
なにか聞き飽きたような響きがあって使いにくい。
「会うは別れのはじめ」とか、みんなが言う。
それでも、出会いと別れは一組のセットなんだと、
やっぱり誰でも知らねばならないことなんだと思う。
つらかろうが、認めたくなかろうが、
会うことだけあって、別れのない関係などありはしない。

それがイヤだからと言って、
「心中」という方法をとったとしても、
ひとりずつの死が、ひとつずつ、訪れるだけなのだ。
「心中」だって、ある種の文化的ないたずらだ。

虚無的に言っているのではない。
人間は、まず、前提として「ひとり」なのだ。
認めたくなくても、ひとりなのだ。
ラジオから流れてきた谷川俊太郎さんの、
何気ない言葉を、いまでも思い出す。
「だって、孤独は前提でしょう」と言っていた。

だからそれが悲しい、と思うことはないのだ。
悲しいとしたら、誰でも、みんなが悲しい。
みんながみんなそうであることを悲しんでいても
どうにもならない。
●が、●であることや、■が■であることは
どうすることもできない。

前にも、書いたことがあったっけなぁ?
それも忘れちゃったんだけど、
こういうことを思ったことがある。
タクシーに乗っていて、道を歩いている人を見ているうちに
ふと、隣りにいた木村くんに言ったんだった。
「あの、いっぱい歩いている人たちってさ。
先祖をたどっていくと、みんな同じになるんだよなぁ。
あの人も、あの人も、どっかで血がつながってるんだぜ。
もっと言えばさ、
始原のタンパク質の誕生から考えたら、
あらゆる生き物も、祖先は同じってことになるだろ。
物質のはじめからたどったら、
そこにある石ころから何から、
みんなオレと同じものになるだろ。
あの買い物してるばあさんも、隣りのおっさんも、
あの電信柱も、このタクシーのこの汚れも、オレなんだよ」

別に禅問答をしたかったわけじゃないけれど、
突然、「オレ」と「宇宙」はひとつだ、っていうような、
いつも考えないようなことを考えてしまったのだ。
別に怪しいキノコを食ったわけじゃなく、
ごくごく日常的な時間だったはずなんだけどね。
なんかの用事で仕事に行くタクシーのなかでさ。
トリップしたような感覚では、なかった。
理屈から言えば、そういうことだよな、と、
冷静に、ふと思ってしまったのだった。

そうだ。出会いと別れのことだった。
出会いも、別れも、最終的には、
個々人の意志でなんとかできるようなことでは
ないのかもしれないと、ぼくは思うんだよなぁ。
出会おう出会おうとしても、出会えないし、
別れるまい別れるまいとしても、別れはくる。
ひとりの人間ができることって、
世界を動かすことが出きるくらい大きいけれど、
ひとつの出会いや別れさえも、
意のままにはできない。

ともだちの周囲で起こったらしい「別れ」のことを、
どう考えたらいいのかわからなくて、
メモ書くように、ここに書きはじめてしまった。

『どうすることもできない、ということは、
肯定されている』
そういうことなんじゃないかなぁ。
なんか、とっちらかった文章ですが、
このまま放り投げます。


2001-08-06-MON

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