ITOI
ダーリンコラム

<遊ぶ・遊べ・遊ぼう・遊び>

先週は熱が出ちゃったりして、急に休んでしまいました。
このダーリンコラムってのも、
もうだいぶん長いこと続けているけれど、
毎週毎週、書く事ってあるもんだねぇ、われながら。

ただ、いま、「テレビ逆取材」って連載があって、
そこでメリー木村に訊かれるままに、
一気にたくさんのことをしゃべっているもんだから、
このごろ考えていることってのを、
出し尽くしているのも確かなんだよなぁ。

ただ、自分の指でタイピングしながら、
書く速度で書くことと、
しゃべりまくったことを書き留めてもらうのでは、
やっぱりちょっと違うところもあると思うので、
同じようなことになるけれど、
ちょっと「遊ぶ」っていうことについて書こうと思った。
「テレビ逆取材」のページのしゃべりと
重なるかもしれないけど許してくれい。

ぼくは、他人からどうも「遊んでいる人」と
思われることが多いらしい。
それはそうではあるんだけど、
同時にね、そうかなぁとも思ったりするわけですよ。

遊びが仕事になっていいですねぇ、とか言われると、
たいていは社交辞令的にでも、
「そんなこともないですよ」とか言い訳がましく返す。
なんとなく、苦労もなく遊んでいるわけじゃないって、
言わないと行けないような気になっちゃうんだよなぁ。

いま、「ほぼ日」をはじめる一年くらい前からは、
ずううっと、働くのがブームとか言って、
ほんとにキチガイじみたワークホリックをやっているけど、
これが正しい道なんだと言うつもりもないわけなんで。
だけど、こうやってじゃんじゃん働いていると、
世間に対して後ろめたい気持にならなくて、
ちょっとラクなんだよねー、思想的には。

ところがさー、この気持のラクさってのは、
これまでの世間の価値とフィットしているってことでしょ。
嫌みな言い方をすれば、ワイドショーで
悲しい事件がおこるたびに、
いかにも同情しているように眉をしかめて、
通りいっぺんの発言しているのと同じですよ。
「二度と起こってはならない事件ですね」みたいなさ。

つまり、「遊んでいる」のは悪いのか、という
ちゃんとした疑問を考えずに済んできたってことだ。
努力も、いいよ。
一所懸命も、好きだし、じーんときたりしているよ。
清く貧しい人の物語も、大好きだよ。
だけどさー、それが価値だなんてことは、
言えないんじゃないのかい?!
と、ちゃんと考えなきゃダメだろうが、イトイよー。

理屈っぽく言えば、生産財がもっと不足していて、
生産手段が手に入りにくい時代には、
どんどん働いて、たくさんつくって、
不安のない明日のために貯め込んでということは、
もっと大きな意味があったはずだ。
しかし、これはこれで、実は、
「時代の考え」であったはずだ。
永遠にこういうことが真理なわけではなく、
ある時代までの限定的な思想であるわけだ。
(もう、このへんで怒る人もいるかなぁ?)

いや、わかる人にはわかると思うんだよ。
例えばさ、花を買うことやプレゼントすることは、
食えないし役立たないしムダづかいとも言えるでしょ。
劇場に芝居を観に行くことも、そうさ。
芝居をやっている人なんて、存在そのものなんか、
もっとそうだよね。
野球の選手だって、いわゆる生産なんかしてないし、
お菓子をつくっている職人さんは、
健康によくない砂糖だらけの害毒を流している人で、
ある程度以上高い料理つくるのも、
金持ちのためだけのムダな仕事だし、
「ほぼ日」的には大好評だった
『Beautiful Songs』の5人だって、意味ない人々だ。

さらに、そういうものを求めていて、
そのためにお金を使ったりするお客さんたちも、
生産中心の考え方から裁かれたら、
「ムダなことをする人間」であり、
そんなムダな金を使うくらいなら、
栄養のあるものでも食えとか、
困っている人のことを
もっと思いやりなさいと言われることになる。
けっこう、これって反論しにくい「正論」なんだよ。
だから、どこかで、遊びをやめられない人々は、
「ほんとは、アッチが正しいんだけれど、
自分はしょうがねぇやつだから、
つい遊んじゃうんだよねぇ」という立場をとっている
ふりをして生きているわけだ。

ほんとは、「ほんとは」もへったくれもないんだよ。
消費のない経済なんてありえないのだし、
生きるために必要なものだけ生産し続けていたら、
なんのために生まれて死ぬのか、
バカバカしくなっちゃうよ。
消費するってことが、どれほど大事か、
堂々と言えなきゃ、いつまででも
「ほんとは不要なことを、しょうがなく」
やってる、買ってるということにして、
自分と世間をごまかしながら、
こころからたのしめないで生きることになっちゃうわけだ。

最近、『日本を創った12人』堺屋太一・著(PHP新書)って
本を読んでいたら、ここに
日本人の「勤勉と倹約」思想の素になる思想家がいたと、
書いてあったんですよ。
どうしても逃げられないようにさえ思える、
ぼくらの心の奥にある「贅沢は敵だ」って考え方は、
石田梅岩という1600年代の商人が生み出した
哲学だと、あったんですよ。
詳しくは、その本を読んだり、
独自に研究してくれればいいと思うんだけれど、
すげぇ強固な思想だよなぁと思いましたよ。
生産、まじめ、倹約、勤勉などなどが
正しいとされるときに、
その裏側にある「消費的」なもののすべてが、
ほんとはあっていけないもののようになったのが、
いまのこの日本の困った問題の原因だと思うのだ。

申しわけながらずに「たのしむ」、
悪いなぁと思うんではなく「遊ぶ」、
うれしいなぁと思いながら「せいたく」する。
それをダメだと言う思想が、
おそらくいちばんの障害になるのだと、ぼくは思う。
いままで頷いて読んでいた人でも、この結論部分だけ
まとめて表現すると、抵抗があるかもしれない。
しかし、その抵抗は、
ある意味で、かつては主流の大思想だった石田梅岩の、
いまでは有効どころか邪魔になってさえいる思想が、
摩擦されて起こっているものなのだ。
ぼくは、そう思うのだ。

そう言うわりに、ぼくだって、
楽しむことを得手にしているわけじゃない、と思う。
自分のこどもが、たのしそうに遊んでいる様子や、
自分自身が「夏休みのこども」として
遊び転げていた時のことや、
外国の映画にでてくる、うれしそうに旅したり
遊んだりしている男女やらの「消費」の上手さを、
ぼくはかなり忘れていると思う。
せいぜいが、好きな寿司屋のご主人に、
とびっきりのいいネタにまつわる話を聞きながら、
うまいうまいと口をもぐもぐさせている時くらいかなぁ。
もうちょっと、あるかもしれないけれど、
なんだか、とにかく、ダメですよ俺。

「消費のクリエイティブ」というような、
生産に対抗しつつ「意義ありげに見せる」
ようなことばでしか、遊びやたのしみを語りにくいって、
俺も、世間も、ほんとにだらしねぇです。

1・2・3・ダーーーーーーーーーーッ!

2000-08-21-MON

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