ITOI
ダーリンコラム

<過去の自分・現在の自分・未来の自分>

「ほぼ日手帳」について、
いろんな人の意見を耳にしたり、目にしたり、
質問されて答えたり、考えたりしている時期だ。

今年は、なにかと、
「自分に助けてもらうことがある」という話をしている。

いや、そんなにおおげさなことじゃなくて、
なにげなく自分が勉強していたことが、
その後の自分の仕事を助けてくれるとか、
過去の自分の失敗が、
いまの自分に無言の助言をくれるとか、
そんなふうなことだ。

なんでも書いておこう、という「ほぼ日手帳」に、
とにかく思いついたこと、
感じたことなどを記しておくと、
その記されたメモが、とても助けになるのだ。
これは、ぼくの実感だった。
だから、未来の自分のためにも、
とにかくなんでも書いておくといいんだ、
ということを何度もしゃべった。

手帳のことで、
「過去の自分・現在の自分・未来の自分」
という考え方をしているうちに、
この、自分というものを
「3人の他人」のように考える方法は、
なかなかおもしろいぞ、と思うようになった。

過去の自分P
現在の自分N
未来の自分F
というふうに他人のように考えてしまう。
この方法で、さまざまな行動を見直してみるのだ。

たとえば、
現在の自分Nがトイレで、どっちかをやって、
水を流しておくことは、
未来の自分Fへの心遣いとも言える。

また、眠くてしかたない現在の自分Nが、
ベッドに向かったら、シーツがぐちゃぐちゃで、
整えてからでないと寝られないとしたら、
過去の自分Pが、起床して
すぐにベッドをきれいに整えなかったからだ。

ギターをうまく弾きたいと思った現在の自分Nが、
一所懸命に練習をしていたら、
きっと未来の自分Fは、
うまくギターをプレイできるだろう。

ギターを練習しておいたら、
きっと未来の自分Fがよろこぶぞ、
ということを想像できる現在の自分Nというのは、
たぶん、過去の自分Pのおかげで、
そういうことを考えられるようになっている。

こんな簡単なことを考えているのが、
なかなかおもしろかった。
「自分」というところを「社会」と置き換えてもいい。
歴史を考えるのも、この考え方でやってみた。

こういう視点で見ると、ぼく自身は、
「過去の自分に感謝せず、
 未来の自分にツケを回す、
 現在中心の男」ということになりそうだ。
いや、これが無条件に悪いことだとも言えない。

「過去の自分にばかり目をやって、
 未来の自分を想像することもなく、
 現在の自分を叱ってばかりいる人」
だっているわけで、これも、うらやましくないよー。

「過去の自分を反省して、
 ただひたすら未来の自分を幸福にするために、
 現在の自分のすべてを犠牲にしている人」
というのも、存在するけれど、ありがたくない。

理想的には、どうなるのかな。
「過去の自分に感謝しながら、
 いまの自分をたのしませているんだれど、
 未来の自分のことを思いやっている」
ってことなのかな?

ぼくの場合だったら、
現在の自分に、
「1日1時間でいいから、未来の自分にプレゼントしろよ」
というのが、ちょうどいいかもしれない。
毎日1時間、どんなプレゼントを貯めていこうかなぁ。
そんなことを考えるのも、悪い気はしないものだ。

過去の自分だ、現在の自分だ、未来の自分だなどと、
同じ人間を分割して考えるのは、
おかしなことだということもわかっている。
だが、まったく同じ人間であるはずもないわけで、
せっかく同一人物ということになっているのだから、
仲よく交流すればいいじゃないか、とも言えそうだ。

交流でも、交換でも、交易でもいいけれど、
やりとりをすることは、ともかくいいことなのだ。
モノポリー世界チャンピオンの百田さんが、
こういう言い方をしたことがあった、
「モノポリーゲーム中のあらゆる交渉は、
 その当事者にとって有利なはずなんです」
これを最初に聞いたときは、感動さえしたものだった。

そして、いまごろ、
自分ひとりしかいなくてもできる交換について、
考えていたわけだ。
それが、
過去の自分、現在の自分、未来の自分というふうに、
自分を交流の対象にするということだった。

いままでごめんね、未来の自分。
いや、未来の自分は、現在の自分として、
過去の現在の自分の尻拭いをしてきたから、
ま、ろくでもない循環があったというわけだったね。

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2007-10-08-MON
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