ITOI
ダーリンコラム

<そば屋の女将さんは、そばを食べるか>

ずっと好きでいる、ずっと飽きない。
そういうことが、かんたんだと思っている人もいる。
たいていは、若い人だ。

「ずっと好きでいる」ことが、
どれだけむつかしいことか。
それだけをわかるためにも、
それなりの長い時間が必要なのである。

ずっと好きでいることが、危うくなりかけたり、
知らないうちに飽きていたりしていくことを、
まず、若いうちは経験することができない。
いろんなものごとに三日坊主だったり、
なにかにつけて飽きっぽかったりというくらいなら、
こどもだって感じることができる。

でも、そういうことじゃないのだ。

こいつと一生つきあっていこう、と決めたこと、
こいつがなければ俺はない、とさえ言うようなこと、
そういうものとのつき合いのうちに、
「ずっと好きでいる」ことが無理だ
というような局面があるものなのだ。

そういう、人間の弱さとか、こころの揺れを、
しっかりと自分で感じられて、
そのうえでしかも、好きであることを続けられる
‥‥というのが、
「ずっと好きでいる」ということだ。

こんなふうなことを書くと、
読んでいる人は、おそらく恋愛やら友情のことを
想像すると思うのだけれど、
実はそういうつもりでもなかった。
「仕事」のことを思って書き始めたのだった。

一生、これで食っていこうと思うような仕事が
運よく見つかったとしたら、
それはほんとうに幸せなことだけど、
「ずっと好きでいる」って、たいへんなことなのだ。
だからこそ、『悪人正機』という本のなかで、
吉本隆明さんが
「10年毎日続けられたら一人前になれる」と、
断言したのだ。
そのむつかしいことを、
なんとかやりくりしてやりとげた人には、
それでメシを食えるだけの、
一人前の技術と考えが備わる。
そういうことなのだと思う。

これまで、ぼくは「ずっと好きでいる」方法など、
ないのだと思っていた。
たぶん、「好き」であることを、
何度も何度も更新し続けることが、
「ずっと好きでいる」
ことの正体なのだと考えていたのだ。

ところが、どうやら、
昔から続いている「職人」の世界には、
「ずっと好きでいる」ことを助けてくれるような
先人たちの知恵が、あるようなのだ。

あるそば屋さんで、女将さんと
「まかない」のことを話していたら。
「わたしたちは、店のおそばを食べられるのは、
一年に一度、新そばがでたときだけなんですよ」
と、いうことばが聞えた。
ちょっと、まさか、という気持ちで、
「え、そば屋だから、そばばっかり食べているとか、
そういうことじゃないの?」
「みなさんに、そう思われてるみたいですけれど、
お客さまにお出しするおそばは、
わたしたちの口には入らないんです。
お店で出せなくなったものとかは、食べられますけど」

ああ、そういうことだったのか、と、
妙に得心してしまった。
一日中、そして毎日、そばのことを考えている人たちは、
そばを嫌になってしまうことはないのだろうか、と、
ぼくは思ったことがある。
「そばなんて、見るものも嫌だ」とか、ね。
でも、いちばんそばの近くにいる人たちは、
食べるためのそばから、遠くにいるのだ。

「じゃ、そばに飽きるなんてこと、なさそうだね」
と、ぼくは言った。
「ないでしょうね、ある意味で、わたしにとって、
 うちのおそばは憧れのおそばです」と、
若い女将さんは笑った。

ぼくは、それまでは、
そば屋を一所懸命にやろうと思ったら、
自分のところのそばはもちろん、あちこちのそばを、
食べて食べて研究し尽くして、なおかつさらに食べる、
というようなことでやっていくのだと思っていた。
「好きこそもののじょうずなれ」というくらいだから、
好きで好きでたまらない、嫌いなくらい好き、
というふうになることが、いいのだと思っていた。

しかし、それだけじゃないんだな、
ということがはじめてわかった。

つくるも、食べるも、そば一辺倒になったら、
きっとやっぱり続けるのは無理になるだろう。
仕事であるそばに対して、
ある種の毅然とした姿勢をキープするには、
距離を置かなきゃだめなのだろうなぁ。

あんまりいい喩えじゃないかもしれないけれど、
「娼婦にとって、肌を寄せ合っている客との距離が、
 誰よりも遠いのだ」と、ぼくは思ったことがある。
そこの「間」をクールにしておかないと、
仕事として続けていくことができないと思うのだ。
それは、そば屋でも同じことなのかもしれない。

そういえば、すし屋の女将さんも、
「主人が、毎年、わたしの誕生日の日だけ、
おすしを握ってくれるんですよ」と、
うれしそうに語っていたっけ。
その当のご主人も、
「自分で握ったすしを、
 カウンターの向こう側に座って、
 食べてみたいと思うんですよ、無理なんですけどね」
と、うれしそうに言っていた。

この主と客の間を、きりっと分ける考えがあると、
「ずっと好きでいる」ことが、やりやすくなりそうだ。

ここまで書いていても、ぼく自身が、
こういう職人さんたちと
同じような考えになるとはかぎらない。
ぼくは、たぶん「素人」であることに軸足を置いた、
不思議な方法を仕事として磨いてきた人間だと思うのだ。
おそらく、付け焼き刃でまねをしても無理がある。

それに、自分の仕事については、
曲がりなりにも40年近くやってきたことがあるし、
「ほぼ日」だって、ぼちぼち10年になる。
どういうわけか、「ずっと好きでいる」ことについては、
ぼくはぼくなりの方法で、なんとかしてきたらしい。
ただ、それが、「そばもすしも食いまくり」の、
とんでもなく体当たりな方法だったような気はする。
でも、これしか知らなかったんだもん、
としか言いようがない。

以上、ふらふらと語ってきた「飽きない論」ですが、
いちおう、仕事の話ではあるけれど、
どう読むかは自由なので、
恋愛やら結婚のことを想像してくれてもいいです。

話は、以上で終わりなんだけど、
ラーメン屋というのは、まったく事情がちがうみたいで。
ラーメン屋の従業員が、ラーメンを食べてる姿って、
ものすごくひんぱんに見ているような気がするね。
(ラーメン屋のほうが、短期勝負だから
 飽きる心配よりも、抜け出ることのほうが大事
 ということなのかな)

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2007-04-23-MON

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