ITOI
ダーリンコラム

<なにもかもが、誰かのものか>

前に、都会の道路に落ちているギンナンのことを書いた。
いちょうの並木があるところでは、
秋になるとギンナンの実が落ちる。
そのままでは臭くて、迷惑なくらいなのだけれど、
果肉の部分を始末して種子だけにしてしまえば、
高級食材とも言える「ギンナン」になる。

ひと手間加える必要があるとはいえ、
街路樹がいちょうの並木には、
数多くのギンナンが散らばっているわけだから、
計算上は、おそらく
10円玉(以上のもの)が道に散乱している状態である。

これを、誰も拾わないということもなく、
ひと手間かけて、自宅で使おうという人たちと、
拾ったものをまとめて「商い」をしようという人がいる。
東京でも、一部の場所の「ギンナン」は、
ホームを持たない人たちの、
大切な秋の収入源になっていると聞いていた。

ぼくは、これを「いいなぁ」と思っている。
まずは、価値の見逃され方がゆるくていい。

1円玉でも落ちていたら拾え、というのが、
世間で言われていることである。
へそ曲がりの人は、
「1円玉を拾うために使うエネルギーと、
 そこで使われる時間は、1円以上になってしまう」とか、
言ったりもするけれど
(そのことを真剣に訴えるエネルギーはどうなのか?)、
貨幣というのは、「まじない札」みたいなものだから、
そのまじないをキープしていくためにも、
拾うことが正しいと、みんなが思っててくれないと
困るわけだからね。
それはそれでいいとして‥‥。

都会のなかで、このギンナンみたいに、
価値が誰かの所有になっていないものって、
ほとんどないのではないか。
まずは、土地が、極端に言えば1センチ平方までも
誰かの所有になっている。
一見、誰のものでもなさそうに思える土地も、
おそらく国やら公共のものなのではないだろうか。

都会ばかりではない。
松茸泥棒のニュースを見ていて思ったのだが、
松茸のようなあからさまな価値のあるもの
じゃない雑キノコの「キノコ狩り」は、
どういうルールになっているのかなぁ。
山に入って、キノコを採るといっても、
その山の土地の所有者のものを
盗ったということになるかもしれない。
キノコ狩りをする前から、そんな心配がでてきた。

そういえば、京都の料理人が、
近所の公園だったかの桜の枝を折って、
料理の飾りに使おうとして検挙されたような事件があった。
おそらく、これも「目に余る」というような
警察のほうの「考え」もあったのかもしれないが、
花泥棒も、泥棒であるということの「見せしめ」になった。

ぼくが、釣りをしていて
「いいなぁ」と思う理由のひとつは、
価値があるとされている海の魚が、
誰の所有でもなく釣ってもいいという自由さにある。
もちろん、あらゆる場所が自由なわけじゃなく、
あわびやエビの漁などのように、
特定の漁業水域での釣りには、別のルールがあるけれど、
基本的には泳いでいる魚は、誰のものでもない。
(‥‥でいいのかな?書いていて心配になっちゃった)

ギンナンのことだの、釣りのことだのを書いているけれど、
それは、あくまでも「所有」の例外の話なのだ。
例外のほうが圧倒的に少ないのである。
いや、そういうことになっているのだ。

ほんとうの、ほんとうの、ほんとうは、
そんなになんでもかんでも、
「誰かの所有である」なんて考え方で、
世界を覆えるはずがないと思うのだ。
しかし、その
「あらゆるものが誰かの所有である」という
世界観を認めないと、
この世の中のルールを守らない人に
なってしまいそうで怖いから、
「これも、あれも、誰かの所有」というふうに
思いながら生きているのです。

しかしね、まだ逆らうんだけれど、
「あらゆるものが誰かの所有である」なんてこと、
あっちゃいけないと思っていることは、やめないつもりだ。

ほら、ネーミングの商標登録にしたって、
「一般名詞」は、登録を認められないだろ。
同じようなことなんだ。
空気が、水が(もう一部は誰かの所有かもしれないが)
誰かの所有ということになったら、
その誰かから、あらゆる人はその「生存の条件」である
空気や水を買わなきゃ生きていけなくなるわけだ。
それは、まずいだろう!

ほんとは、あぜ道のヨモギを勝手に摘んで、
ヨモギもちをつくったり、いまでもできているのだけれど、
そういうものが多いほど、世界は息苦しくない‥‥
ということになるのではないだろうか。

ここからは、ぼくの直感的な思いつきなので、
眉に唾して聞いてもらったほうがいいかもしれない。
「あらゆるものが誰かの所有である」という考え方を、
しっかり身に付けていないと、
知らず知らずに「盗み」をしてしまうことになりかねない。
「あ、取っちゃいけなかったんですか?」とか言いながら、
逮捕されてる人が、けっこういるんじゃないかと思える。

ぼく自身のことを考えてもわかる。
子どものころ、ぼくの読んでいたマンガのなかでは、
登場する子どもたちは、近所の柿の木から、
柿を取って「コラーッ!」と追いかけられていた。
これをいま少年マンガで描いたら、
「窃盗を是認するマンガ」であるから、
「教育上の配慮が足りない」ということで、
相当な抗議を受けることになるだろう。
しかし、現実には、
「コラーッ」で済まされる時代から、
「窃盗で検挙される」までの間には、
グラデーション状態での変化があったはずだ。
社会に許されていたことが、
社会で許されなくなるまでの期間は、
「どっちだかわかりにくい」ということがある。
誰もが、その時代その時代のルールになじめる
ということは、ほんとうはありえない。
罪を容認するというわけじゃなくても、
「だって、実際、そういうもんでしょう」と思うのだ。
それがふつうの感覚というものだと、ぼくは考える。

しかし、そんなふうに言っているぼくの意見は、
「あいまいで、例外処理が多くて、むつかしい」ものに
なってしまうのだ。
どうすればいいんですか、と訊かれても、
いちがいに答えられないということが多くなりそうだ。
ずっと、その都度その都度、
答えを探すようなことをしていかなければいけない。
そんな面倒くさいことをしようとする人もいるけれど、
そんな面倒くさいことはいやだ、と思う人もいる。
それに、面倒くさいことというのは実行力に乏しい。
いちばん面倒くさくないのは、
例外をなくしたルールで、世界全体を固めることだ。
一般に「原理主義」というのは、
そういうものなんだろうなと思う。

で、恐る恐る言うしかないのだけれど、
家庭内暴力であるとか、親の子どもに対する暴力だとか、
自分への暴力としての自殺だとかは、
「自分(家族・子ども)といういのち」が、
「自分の所有である」という誤解に
基づいてるのではないだろうか。
そんなふうに思えるのだ。
ぼく自身も、少年期も青年期も中年期も過ごしてきた
ひとりの人間だから、
一度も自殺を考えたことなんかない、とは言わない。
一度半くらいは、それを考えに入れたことがある。
そのときの気持ちを、いま思い出すと、
「自分というものを、自分が所有している」と、
ナマイキにも考えていたのだった。

ジグソーパズルの1ピースが、
「おれのいのちは、おれのものだ」と言って、
焼身自殺をしてしまったら、どうなるだろう?
他のジグソーたちは、ジグソーパズルであり続けることが
出来なくなってしまうのだ。

自分は、自分の所有物じゃない。
もちろん、家族も、恋人も、
所有物なんかじゃないのだ。
「あらゆるものが誰かの所有である」
という考えについては、
認めたふりをしてやってもいい(ふりだけど)。
しかし、
「あらゆる人間は、絶対に誰かの所有物ではない」。
所有者を名乗る者が、たとえ、自分であっても。

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2007-01-08-MON
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