ITOI
ダーリンコラム

<ジョアンは、うれしかったのね>

けっこう、注意深くことばを選ばないと、
非常に誤解を招きやすいことなんですけれど、
いちおういったんは、こういう考え方もあるんじゃないか
ということを記しておこうと思いました。
特に、インターネットの上で読まれること、
さらには「web2.0」という考えが流行している時期に
読まれることを考え合わせると、
なかなかややこしいんですけれどね。
「つくる」ということ
「うみだす」ということについての話として、
書いてみたいなと思ったので、書きはじめてみます。

最近おなじみになった、腹話術スタイルで
やってみます。
今回は「御釜バーのママ」で行ってみようかしらね。

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こないだね、大貫妙子が来たのよ。
そうよ、ター坊よ、知らないの?
知ってたほうがいいわよ、大貫妙子のことは。
あれは、たいした女よ。
オフィシャルホームページも、教えてあげるわよ。
あたしは、彼女に、アフリカにいる
本物のハイエナの話を聞いてから、
ハイエナのファンになったのよねー。
みんなハイエナのことを誤解してるわ。
ハイエナって、すっごいのよ。

それでさ「ジョアン・ジルベルト」の話になったわけ。
ハイエナ?
もうハイエナの話は終わってるのよ!バカねー。
ジョアンよ、ボサノバのジョアンの話。
日本に来てさ、もうほんと奇跡的なコンサートだったのよ。
ずうっと観客席から拍手が聞え続けててね、
30分とか40分とか言われてるけど、ずっとよ、
ずっと拍手が聞えててね。
ジョアンは、目を閉じて、ずっとそれを聞いてたのよ。
拍手を味わっていたのよ、演奏家の側が。

その話になってさ、あたし、ター坊にね、
「あれって、おじいちゃんだから寝ちゃったのよね」って、
言ったわけよ。
気を失ってたというか、
舞台の上で時差ボケになったというか、
拍手を聞いてるうちに眠くなっちゃったんじゃない?

でも、大貫妙子さんは、そうは思ってなかったらしいのよ。
「寝てなかった!」って、
ハッキリ言ったわけじゃないんだけど、
ちがう言い方で、すてきな反論をしてくれたわよ。

「ジョアンは、ほんとうに日本のお客さんのことが、
 うれしかったんですよ」
っていうようなことを、ね‥‥。
そう言ったわけよ。
ジョアン・ジルベルトは、また日本に来るらしいじゃない。
ほんとに、それって特別なことらしいの。
日本に来て、日本の観客に向けてコンサートをしたいのよ。

大貫妙子は、ジョアンとおなじ演奏する立場だから、
きっとわかるんだと思うの。
「日本のお客さんみたいに、あんなに
 ちゃんと聴いてくれる人たちがいるって、
 ほんとにうれしかったんですよ」

あたしは、逆に訊いたわよ。
「地元の人はちゃんと聴かないの?!」ってね。
だって、ボサノバのご先祖さまでしょ、神さまでしょ。

「地元の人たちは、聴くというより、
 歌っちゃうんですよ、いっしょに」。
あらまっ!
それはそれで、楽しんでいるってことなんでしょうけど、
演奏してもしても歌っても、
いつもお客さんがいっしょになって歌っちゃってたら、
聴いてもらいたいって気持は満足しないわよねー。
でも、ブラジルの観客が悪いのかっていえば、
そうじゃないとも思うのよ。
歌に、共感をしてるわけじゃない?
積極的にいっしょに楽しんでるわけじゃない?
歌はみんなものだもんねー。
それでいいのだって、言いたいと思うのよ。

でも、ジョアンは、そればっかりじゃさみしかったのよ。
想像することしかできないんだけどさ、
みんなの歌になっちゃうばっかりってのが、
なんだかさみしかったんだと思うの。
「おれが歌っているんだから、黙れ!」って、
そういう気持だってあったんじゃないのかしら。
でも、それは言えないわよね、
みんなが楽しんでいる場面でさ。
だから、コンサートをしなくなっちゃった‥‥って、
そういうことも言えるんじゃないの?

だって、日本には、また来て、
幻と言われたコンサートを何度もやる気なんでしょう。
聴いてもらえるってことが、取り返せたのよね。
たぶんさ、日本のジョアンを聴く観客には、
歌のつくり手、オリジナルの歌い手に対しての
「敬意」があるんだと思うのね。

「敬意」って、上と下のある価値観でもあるから、
なんでも平等って主義者からしたら、
遅れてるってことかもしれないわね。
ジョアン・ジルベルトがどういう性格の人か、
あたしはよく知らないけどさ、
いい曲いい歌を、つくっても、演奏しても、歌っても、
すぐに「みんなのもの」になっちゃうって感じは、
うれしいだけじゃないだろうな。

たてまえとしては、なんでも
「みんなのもの」になれば最高なのよね。
しかも、あっというまに「みんなのもの」になるなんて、
ほんとにいいことなのよ、きっとね。
だから、「みんな」そのものである
お客さまへの批判は、誰も絶対にしないの。

お客に悪口言って、「ほんとは愛情なのよ」みたいな
高度なテクニックなんかも、
あたしたち「御釜バー」では使うけどね。
でも、「みんな」を敵にまわしちゃいけないのよ。

きっとジョアンだって、そうだったのよね。
お客さまという「みんな」は、
ありがたいし怖い存在なのよ。
「みんな」なしに、表現は成り立たないのよ。

でもよ、でもなのよ、
自分という人間のオリジナルの表現を、
送り手と受け手という関係で、
敬意をもって聴いてもらいたいって欲望は、
あったんじゃないかしらねー。
「おれが歌ってるんだから、黙れ」って、
言いたかったんじゃないのかなぁ。
だから、人前で歌うことや、
新しく曲をつくることもしなくなって、
ひっこんでいったんだと思うのよねー。

そこで、日本の観客に会ったのね。
ジョアンは、こんなに自分に敬意を払って、
ちゃんと「おれの歌」を聴いてくれる「みんな」が
存在していたんだ、と、知ったの。
‥‥想像だけどね、あたしの。
日本の観客が、ひょっとしたら、
遠慮が強すぎるのかもしれませんよ。
ものおじするタイプの、引っ込み思案の、
積極的に音楽に参加しない、頭でっかちの、
煮え切らない音楽ファンだったのかもしれませんけどね。
だけど!
いまの時代の行きすぎた状況に対しての、
なにか大事なことを持っていたのよ。
それが、たぶん、「敬意」なのよ。
ジョアン・ジルベルトへの敬意、
ものをつくるということへの敬意、
そういうものが、世界中からなくなっているのよ。

創造というのは、みんなでわいわい言いながら
やっていくことでもあるかもしれない。
半分くらいは、そういうことが言えるかもしれない。
だって、ハリウッドの、絶対に当てなきゃならない映画の
エンディングなんて、
暗いのから明るいのから、いろいろ、
いくつかのタイプをつくってみて、
試写をやって、その反応で決めるらしいじゃない。
そういうつくり方で生れる楽しみっていうのも、
あることはよくわかるのよ。

「みんな」って、ほんとにすっごいと思うの。
これはほんとに思うのよ。
でも、そう言ったうえで、さらに言いたいのね。
「みんな」じゃできないことが、あるのよ。
映画でも、舞台でも、みんなでつくるでしょ。
すごいと思うわ。
みんながいなかったら、絶対にできないと思うの。
ひとりでつくる映画とかって、やっぱり、
そうとう痩せちゃう可能性が高いわよね。

だけどね、その映画にしても、
どうしょうもなく「個人」に頼る部分があるのよ。
例えばよ、主人公の役者さんが、
他の人でもよかった、って思われるような作品じゃ、
やっぱりつまらないでしょ。
あと、ほんとうにすばらしい作品って、
その作品を誰よりも強い力でひっぱっていった
強烈に一所懸命な個人がいるものなのよ。
ほら、『明日の記憶』のことなんかでも、わかるじゃない。
「みんな」がつくったのね、もちろん。
でも、渡辺謙というひとりが、徹底的に
個人をぶつけて引っ張っていかなかったら、
「みんな」を動かせなかったということよねー。

ピカソが絵を描いているときに、
ピカソの絵の大ファンでも、世界的な美術批評家でも
そこにやってきてさ、
「ああ、ここは、もっと青が強いほうがいいですね」とか、
「あの時代のあなたに比べたら、オーラがないですね」とか
言いやがったら、どうだと思う?
ピカソは、「あなたのご意見をありがたく頂戴しましょう」
とか言って、絵を変えていくかしら?
変えないわよね。変えないでほしいでしょう。

村上春樹が小説を書いているときに、
「この脇役の出番をもっと増やしてください」とか、
言ったら、作品はもっとよくなるのかしら?
よくなんか、ならないのよ。
もっと言えば、あれこれ注文をつける人は、
自分が表現する側にまわって、
つくりだすことの苦しみとよろこびを、味わうほうがいい。

最初に、「みんな」の前に差し出される作品があって、
それについての感想なり、批評なり、再構築なり、
オマージュなり、リミックスなり、パロディなりが、
どんどんとつくられていくのよね。
最初に、
作品があって!
なのよ。
最初の作品がなければ、はじまらないの。

「三人寄れば文殊の知恵」ってこともあるけれど、
ひとりの思いでしかできないことも、あるんじゃない?
「みんな」でやれることと、やったほうがいいことと、
やれないこと、やらないほうがいいことの区別が、
必要なのよ、きっと。

ほら、いまってさ、
インターネットで情報を持ちよって、
もうね、世界百科事典みたいなものが
みるみるできちゃったりするじゃない。
すごいわよ、そりゃぁ。
だけど、それは運搬と保存のできる「情報」を
持ち寄るってつくるものなのよ。

そうじゃないものがあるのよ。
たとえば、ジョアンの声だって、
あの声だからジョアンなのよね。
それを聴きたい、と思う人がいて、
「おれの声でいいんすね」ってジョアンが言ってさ、
日本のコンサートが成立するわけよね。
ここに、「日本のお客さんが好きだ」っていうジョアンと、
ジョアンまるごとに敬意を払う日本の観客との、
いい関係が生れているんじゃないのかな。

いまさー、インターネットで、
「みんな」がいろんなことを言うようになったわよね。
言える場が、昔はなかったんだから、
すばらしいことだと思うのよ。
あたしのこの話だって、ここだからこそ掲載されてるのよ。
でも、気付かない?
ホームページでも、ブログでも、ミクシィみたいな場でも、
だいたいが、
「まず誰かがつくったもの」について発言してるの。

どのくらいの割り合いだろ?
90%くらいかしらねー。
そんなにはないかな。
日記もすっごく多いからね。
だけど、日記のなかでも、やっぱり
「まず誰かがつくったもの」についての発言が多いわよ。
なにかを見た、なにかをした、なにかを買った、
なにかを読んだ、なにかに怒った‥‥。
それが、『嫌われ松子の一生』っていう映画だったりさ、
『志の輔の落語』だったりさ、
『レミオロメン』だったり、『デスノート』だったり、
いろいろなんだけどね。
誰かがつくったなにかなのよ。
それをめぐって、感想やら批評やら批判やらが、
一気に無数に立ち上がっているというのが、
いまのインターネットのなかで展開されている
「みんなの発言」だっていう気がするのね。

「最初のなにか」になるような、
作品というのか、創作というのか、オリジナルというのか、
そういうものは、実はあんまり多くないのよね。

あたしはね、もっと、インターネットのなかで、
ブログを書いてる人とかが、
つらい思いをすればいいと思うの。
「こんどのあの映画、食い足りなかったですね」なんて
いくら書いてても、無傷だし、恥もかかないわよね。
でも、自分が脚本の一本でも発表したら、
ほめられることもあるだろうし、貶されもするでしょうし、
もっと言えば、しっかりと無視もされるのよね。
自分じゃ、命懸けくらいの覚悟で書いたものでも、
なかなか相手にもされないのよ。
だけど、それこそが、
ネットという「場」があることの
すばらしさじゃないのかしら。

ほんとは、いろんなことが
「みんなのもの」になる時代のすばらしさって、
客席にいる人が、自由に
舞台に向かってやじを言えることでもなく、
客席と舞台とがいつでも大合唱していることでもなく、
「舞台と観客席が、いつでもひっくり返る可能性」を
両者が信じているワクワク感なんだと思うわ。

なんか、御釜の腹話術をしても、
なかなかうまく言えなかったわねぇ。
もっと短く言うと、どうなるんだろう?
送り手と受け手との間に、敬意を‥‥ってことか?
それだけでもないような気がしてたんだけど、
うまく思いつかなかったのね。

送り手は受け手を、受け手は送り手を、
「育てる」ということ、かな?
これは近いかもしれないわ。
おたがいに、使い捨てっぽいものね、いまって。

「同じことを、自分だったらどうやるんだろう」って、
あたしなんかは、しょっちゅう考えてるのね。
そうすると、スポーツとか見てても、
ものすごく疲れちゃうのよ。
「あれは自分には無理だな」ってプレイだらけで、
それを見ているだけでも、
自分がなにかの経験を積んでいるように思えるのよ。
よく、あたし、人に言ってたわ。
野球を観るときに、硬式の野球ボールを
手に持って観るといいわって。
この硬いものがちょっと当たっただけで痛いでしょ。
それを、140キロとかの速度で投げる人がいて、
打ち返す人がいて、追いかけて捕る人がいるって、
イメージしてごらんなさい。
いかにもゲームゲームした野球が、
荒々しい格闘技のように、肉体的なものに見えてくるわ。
そして、そこで試合をしている選手たちに対しての、
敬意が生れてくるの。

長々と読んでくれて、ありがと。
結論としては、ジョアン、よかったね、と。
ジョアンは、うれしかったのね、とね。
そんなことでいいんじゃないかしらね。
敬意よ、敬意。敬意が大事なのね。

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2006-06-12-MON

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