ITOI
ダーリンコラム

<空気を読む>

「空気を読む」ということばが、
あちこちで聞かれるようになった。
おもに、「空気を読め」とか
「空気が読めないやつ」という具合に
否定的な言い方で使われることが多い。
他の言い方をすれば「察する」ということだ。

この「察する」という能力は、
昔は、みんなにあった
ということになっている。
みんなが察し合うコミュニケーションをしてきた、と。
「察し」のコミュニケーションは、
明文化されてないルールのように、
わからない者には、なにをどうすればよいのか
判断する基準が見えないために、
新しい世代の人間には評判が悪かった。

してほしいことをハッキリ言ってください、とか、
言ってくれなきゃわからないでしょ、とか、
「察しのコミュニケーション」に
反対する立場の人の言い分は、わかりやすい。
もし、「察し派」と「明文派」というものに
分けられてディスカッションしたとしたら、
「明文派」の勝ちは目に見えているだろう。
これまでも、これから先も、
「もっと察しというものを大事にしろ」という意見は、
どんどん少数派として取り残されていくのだろう。
そう思っていたのだった。

ところが、「少しは空気読めや、ほんまに」というふうに、
笑いのジャンルあたりから、
決してノスタルジックにではなく、
「芸人としての必須条件」として
「空気を読む」という資質が語られるようになっていた。
これまで、近代化する一方だとばかり思っていた
コミュニケーションスタイルだったけれど、
ひとつの「王政復古」みたいな現象が、
始まっていたのかもしれない。

たしかになぁ、何もかも言葉でやりとりできる、と
信じ切っている人とは、話しにくいもんなぁ。
取材なんかでも、あるんだよね、
うまく言えないことをなんとかがんばって言ってると、
「それは、どういうことですか?」と、
いとも簡単に聞くやつがねぇ。
ま、いいか。

おんなじ「バカ」というセリフにしたって、
言い方によっては、「好き」という意味にもなるし、
「かわいいやつだな」にもなるわけで、
そういうことをわからない人に対して、
「バカ」と言ったら、
「私は、親にだってバカと言われたことないです!」
なんて怒られたりする。

しかし、「空気を読め」ということ、
「察しなさい」というようなことって、
どうやって教えたら、空気が読めるようになるのだ?
なんでもかんでも言葉になおして、
コミュニケーションのルールを共有するという方法なら、
話しあいでなんとかできるだろう。
契約というやつは、そういうふうにつくるものらしい。
なんでも言葉にしておくってことになる。
これを極端にすると、
「書いてないことはないこと」にされてしまう。
だから、電子レンジで猫を乾かすな、とか、
そんなことまで明文化する必要さえでてくるわけだ。
しかし、猫を乾かすな、ということは、
犬も乾かすなということだし、
もしプレイリードッグを飼っている人だったら、
それも乾かすなということに決まっている。
ワニは爬虫類だが、どうなのか?
なんてことを、また言ってくる人がいるかもしれないけど。

だんだんと、例外的に常識を持ってない人に合わせて、
コミュニケーションが設定されるようになる。
お笑いに関わる芸人さんたちのなかから、
「そこまで説明しないといけないのか!?」と、
「空気を読め」がひろがってきたのは、よくわかる。

にしても、どうやったら、空気が読めるようになるのだ?
「相手の身になって考えろ」だとか、
「想像力が足りないぞ!」なんていう小言も、
ずいぶん言われてきたと思うけれど、
読めないやつは読めないし、
どうしたら想像力を補給できるのか、方法がわからない。

と、ここまでは、前にも書こうと思ったことなのだけれど、
もしかしたら、「空気を読め!」は、
学べるのかもしれないと、
つい最近、思うようになったのだ。

もうしわけないけれど、うちの犬だった。
愛犬ブイヨンさんが、ヒントだ。
例えば、彼女は、
うちの玄関の靴を脱ぐ場所から先には、
土足であがらない。
そういうふうに教えた覚えはないのだけれど、
あがろうとしたときに、止めたことはあるかもしれない。
また、彼女の歯で噛んでいい玩具と、
噛んではいけないさまざまなモノとの区別を、
完全に理解している。
これについても、いちいち教えたことはない。
朝の散歩のときでも、
ほんとうに行く直前には、しっぽをパタパタさせて、
飛び回るけれど、
行くかもしれないというくらいの状況では、
ふとんをかぶって寝ていたりする。

‥‥これは、「空気を読む」そのものではないか?!
言葉以外のなにかを、犬は読みとって、
次の行動を決定しているのだ。
おそらく、幼児が社会に参加していくときにも、
同じようなプロセスがあるのだろう。
また、外国に生活しながら
その国の言葉を憶えていくときにも、
「空気を読む」ことが、
先んじて行われているのだろうと思う。

と考えていたら、わかるじゃない?
言葉が、空気を読むことのじゃまをしているのだ。
いや、そういう言い方は、言葉にもうしわけないな。
言葉と事実が一対一でしか対応できてないような
「痩せた言葉」が、空気を読むことを妨害するのだ。

言葉を話せない犬や、
親の仕事の都合で海外に住むことになった幼児は、
全身を感覚器にして、空気を読む。
そうやって、生きるためのコミュニケーションを
磨いていくということなのだ。

だとしたら、「空気を読め」ということを
教育するためには、
いったん「言葉を禁じる」のが
いちばんいいことなのかもしれない。

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2006-01-23-MON

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