ITOI
ダーリンコラム

<「いい会社」をずっと考えている途中で。>

『はじめての中沢新一。』の前夜に、
なんとなく書きはじめた。
いつに増して生煮えのメモみたいなことだけれど、
夜中に、ともだちと話しているくらいのつもりで、
読んでください。

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世界のすべては、
「誰かがやったこと」と、
「誰かがやったわけじゃない」ことでできている。

いやいや、この言い方はちょっとずるいんですけどね。
だって、
「世界は犬と、犬以外から成り立っている」とか、
「世界は三振と、三振以外である」とか、
いくらでも言えるからね。

でも、ぼくらは、世界を
ついつい「ただあるもの」として眺めちゃうもんだから、
わざわざ「誰かがやったこと」を意識するために、
そんな言い方をしているのだ。

広告の勉強をする教室みたいなところで、
先生役をしているとき、ぼくは言ったものだった。
「コマーシャルフィルムに写っている紙くずは、
誰かがそこに置いたか、
誰かが、そこにあってもいいと考えて
あえて片づけなかったものなのです」と。
つまり、CMのなかに見られる紙くずは、
その「制作物」の一部分として、そこにあるのだ。
たった15秒のCMだからこそ、
このくらいのコントロールはしてあるというわけだ。

しかし、このたった15秒のCMのなかにも、
「誰かがやったわけじゃない」ことがある。
それは、例えば、その日の天気だ。
それはまた、例えば、出演しているタレントの顔だ。
天気は、人にはつくれない。天がつくりだすものだ。
タレントの顔も、制作者にはつくれない。
それをつくったのは彼や彼女の親たちだ。
ただ、天気は、いろいろに変化するけれど、
そのうちのいちばん気に入った光や雲を選ぶことはできる。
タレントの顔はつくれないけれど、
そのタレントをキャスティングすることや、
さらにそのタレントを活かすためにメイクをしたり、
スタイリングやヘアデザインで助けることはできる。
そういう意味まで含めたら、
15秒のCMというのは、ほとんどが
「誰かがやったこと」でできているということになる。

「誰かがやったこと」と、
「誰かがやったわけじゃないこと」を、
いろんなふうに組み合わせて、
ぼくらの周囲のほとんどのものができている。

アニメーション映画などというものは、
誰かが意識的に描かないことについては、
一切が「ない」ということになる。
それこそ、紙くずひとつにしても、
誰かが描いたから、そこに出現したのである。

自動車みたいなものも、
「誰かがつくらなきゃなかった」もののカタマリだ。
ねじ1個にしたって、そういうものの必要があって、
もっとも都合のいいものが設計され、そこに生み出された。

一方で、「さつまいも」みたいなものは、
誰かがどれだけ苦労したり工夫したりしても、
その大きさやかたちを管理しきれるものではない。
土のなかで、刻々と神様のくじ引きが行われていて、
人は掘り出すときに、はじめてその結果を見ることになる。
ただ、1個ずつのさつまいものはコントロールできないが、
その畑のさつまいもの総体を、もっとおいしくしよう、
というような工夫や努力はできる。

ずっと、その後も「いい会社」について考えている。
それを考える過程で、これまで自分が
チームのみんなに言ってきたことを確かめている。

「ほぼ日」では、
「クリエイティブがイニシアティブをとる」
ということを実現したい、と言ってきた。
そのことについて考えてみているのだった。
また、「読み物としてのコンテンツ」と、
「モノのかたちをしたコンテンツ」、
「方法としてのコンテンツ」というような言い方で、
「ほぼ日」の「クリエイティブ」を、
「コンテンツをつくる仕事」としてイメージしてきたが、
それらのことの、もっとも単純な原点のようなものが、
冒頭に記したことなのではないかと、思いつつあるのだ。

世界のすべては、
「誰かがやったこと」と、
「誰かがやったわけじゃない」ことでできている。

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2005-10-24-MON

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