ITOI
ダーリンコラム

<古びないことと新しいこと。
 ヌード写真・スターウオーズ・ギャル雑誌>

日曜日の夜中に、まとめる気持ちもないままに、
古くならないことと、新しいことについて、
考えはじめた。
ほんとうは、こういうメモのようなものを元にして、
あらためてまとめるべき内容なのだと思うけれど、
例によって、生煮えのまま、出してしまおうと思う。
自分が、飽きてしまわないうちに。

『PLAYBOY日本版』の30年前の創刊号を、
ミニチュア付録というかたちで見て、びっくりした。
(これは『今日のダーリン』にも書いたんだけれど)
30年前のヌードが古くなってないのにも驚いた。

ファッション写真が古くなることは、
誰にも理解できるだろう。
素人が自分を撮影した記念写真にしたって、
昔のものはヘアスタイルから服装から
笑顔のつくり方にいたるまで、
すべて古くなっていて笑ってしまうようなものになる。
ヌードだって、時代を経たら古くさくなるはずだ。
表現には、意識的なものであれ無意識のものであれ、
流行というものの影が落ちるのだ。
なのに、30年前の『PLAYBOY』のヌードに
古くささが感じられないということは、
いま現在の『PLAYBOY』のヌードが
古いままの表現技法を変えてないせいだとも言えるし、
と同時に、古くなりにくいヌード写真の表現技法
というものを、この雑誌が開発したのだとも思える。
ヌードには、衣装があんまり関わらないので、
古くなりにくいのだとはいうものの、
実はけっこう昔の裸には、古さが写っているものだ。

もうひとつ、『スターウオーズ』完結のニュース。
この映画シリーズも、1977年のスタートだから、
これまた約30年の時が経っているわけだ。
この30年の間に、特撮技術は
とんでもない進化をしてきているのだけれど、
この映画シリーズのトーンは古びてはいない。
いや、まったく古びてないかと問い詰められたら、
まちょっとは、と言うしかないのだろうけれど、
基本的には、最初の公開作から、大きくぶれてはいない。
ジョージ・ルーカスという人が、
全9作ともいう構想でつくりだした話だから、
当然、これだけの超大作シリーズの製作が、
何年にも何十年にも渡ることは想定していたと思う。
『アメリカングラフィティ』という映画をつくった
ルーカスという監督が、
「日が経ったらいろんなものが変化する」ということを、
計算にいれてなかったはずがない。
ぜんぶがつながって見られるような映画にするには、
古びるということについて、
あらかじめさんざん考えておく必要があった。
そして、おそらく
「あらかじめ古くさい」デザインで世界を描いた、
宇宙時代劇としての『スターウオーズ』が
誕生したのだと、ぼくは想像する。

そう。『スターウオーズ』の世界観や美術は、
1970年代の後半において、
すでに「クラシックSF映画」のパロディに見えるくらい
時代がかっていたのだった。
つまり、あのときの最先端の科学知識をつかっての
宇宙活劇をつくろうとしたら、
『スターウオーズ』のさまざまなデザインは、
あんなふうにはなりようがなかったはずだ。
そして、もし、そっちの道をルーカスが選んでいたら、
この映画シリーズは、一本ごとに古くさくて
見ちゃいられないものになっていたことだろう。

古くならないためには、
「あらかじめ古い」という道を選ぶ方法がある。
いつも和服の、着物の人は流行に遅れにくい。
スーツなどでもトラッド好みの人は、
流行がない、ともいえないけれど、
比較的流行り廃りの波長が長い。

ながなが書いてるけれど、以上が、
古びないということについてのメモだ。
それはそれとして、
新しいことについても思うことがあった。

新しいということを自己目的化してしまうと、
なにがいいんだか悪いんだか、
なにがおもしろいんだか、わからなくなっちゃう。
そういう人は、あちこちに山ほどいる。
いわゆるその、「新し競争」というものが存在するわけだ。
自分がどういうもので、どういう場所にいるかとか、
どういうことができるのかとか、
見当もつかない若い時分には、
新しいものをつかんでいる、知っているということが、
とっても大事なことに思えるのだ。
新しいことがそのまま価値、という基準だけで、
生きていける人だっているかもしれない。
それくらい新しいことの意味は大きいのだ。

でも、その「新し競争」を警戒するあまりに、
新しそうなものすべてを避けてしまう危険もある。
ぼくのなかにも、その傾向はちょっとある。
「んなもん、新しいってだけだろ」と、
簡単に片づけてしまいやすいのだ。
もし、すべてをそうやって片づけてきたら、
このインターネットを使った
「ほぼ日刊イトイ新聞」なんてものは生まれなかった。

新しいものの、どこが新しいのか、
その新しさというのは、どういうふうに社会に吸収されて、
当たり前のとして存在するようになるのか、
そういうことは、ほんとうに興味深い。

先日、長く「ギャル雑誌」の編集責任者を
やってきた人と会う機会があった。
ふだん、読むことのない種類の雑誌なのだけれど、
「ギャル雑誌」に共通する美意識というのは
どういうふうに体系化されているのだろうと
ずっと気になっていたので質問させてもらった。
その雑誌の「アートディレクター」は、
どういうふうにキャスティングされて、
どういうふうに仕事をしているのか、訊きたかったのだ。

一見、野放図みたいに見せかけている
テレビ番組『タイガー&ドラゴン』にしたって、
誰かが基本的なアートの監督役をしていると思う。
「これはキレイで、これはキタナイ」というモノサシを、
いつも提示できる役の人がいないと、
キレイもキタナイもカッコいいもわるいも、
ごちゃごちゃになってしまうから、
だいたいのマスな仕事にはアートディレクターがいる。

答えは即座に返ってきた。
「いないんです」だった。
いなくて困っている、という言い方ではなく、
かなり確信をこめた言い方だった。
ぼくが、「いちゃ困る」という感じなのか訊くと、
そういう感じなのだということらしい。

街のエネルギーや、
浮かんでは消えていく「流行りみたいなもの」を、
瞬間瞬間で表現していくためには、
「こういうのがキレイ」という信念みたいなものが、
かえってじゃまになるということのようだ。
たしかに、いままでのデザイナーの人たちは、
自分がこれまで育って学んできた美のモノサシから、
少しでもはずれたものは「キタナイ」として
捨ててしまおうとする傾向があったと思うし。
また、まだ「キレイ・キタナイ」すら
決まってなような価値が、
街という渾沌の底から、
メタンガスのように浮いてくるのを、
すくい上げ続けることは、
外部にいてアートディレクションやっていく方法では、
きっと無理なんだろうと思った。

なんというか、「高みのアートディレクション」よりも、
「わいわい話し合うカワイイ感じ」というものほうが、
ギャル雑誌の価値を決定づけられるということだ。

ギャル雑誌のありようは、よくも悪くも、
インターネットに似ていると思った。

「価値」が街の「もみあい」のなかから決定されていく、
というようなことは、きっと昔からあったことだ。
粋だの鯔背だのという江戸の価値観は、
誰か「粋のわかるオーソリティ」が決めたものではない。
街のもみあいのなかから、浮かび上がってきたものが、
あいまいに体系化されていったものだ。
「先生」やら「カリスマ(権威)」が決定できると
思っていたら、きっと大まちがいのだ。
新し競争の大好きなデザイナーの世界より、
もっとわけのわからない新しさを呼吸しているのが、
「街」という怪物なのかもしれない。

古びないための周到な計画を考えることも、
実におもしろい、うらやましいくらいの仕事だ。
また、価値が定まっていないくらいの、
追いかけきれるはずもないような
ナマな街の(ギャル的)価値を、
全速力で追いかけあっている人々というのも、
これまたおもしろいことをしているなぁ、と思うのだ。

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2005-05-23-MON

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