ITOI
ダーリンコラム

<犬はとにかく歩くことじゃよね>

「犬も歩けば棒に当たる」は、いろはがるたの
最初にでてくることばだから、
たいていの人が知っている。
いや、まてよ、いろはがるたなんて、
もうたいていの人が知っているものじゃないかもしれない。
それでも、「犬も歩けば棒に当たる」は知っているだろう。

こういう場合の「犬」ということばは、
「たいしたことないもの」「とるにたらぬもの」の
象徴として使われている。

ま、もうちょっとリアルに、
このかるたをつくりなおすならば、
「犬っころも歩いてりゃ、なんかしらあるさ」
というくらいの感じかな。

この「なんかしら」というのを、
災難と考えてもいいし、幸運ととらえてもいい。
禍福は糾われた縄のごとし、というくらいのものだ。
災難だと思われたことと、幸運だと思われたことは、
その後になってみたら、同じようなものだったりする。

「犬も歩けば棒に当たる」‥‥。
こどもの頃には、「そりゃそうでしょう」と思った。
なにをわざわざそんなことを言うのだろう、と思った。
しかし、だんだん自分がこどもでなくなるにしたがって、
「犬も歩けば棒に当たる」は、
ぼくの無意識の「座右の銘」に昇格していった。

なんにもやらなきゃ、なんにも起こらないのだ。
自分の座っている範囲で物事を片づけようとすると、
堂々めぐりになってしまうのだ。

恋をしなきゃ、失恋もしない。
(恋をしなきゃ、恋人はできない)
博打をやらなきゃ、賭け金を失わない。
(博打をやらなきゃ、大当たりもしない)
仕事をしなきゃ、失敗もしない。
(仕事をしなきゃ、成功もしない)
いくらでも、こんなふうな例は思い浮かべられる。

これまた、すべて当たり前のことばかりだ。
犬(という「とるにたらぬもの」)でも、
自分の限定的な世界を出て「歩く」ことによって、
「なかなか苦労した犬(とるにたらぬもの)」に、
なっていくというわけだし、
「大成功した犬」にも、「天才と呼ばれる犬」にも、
「熟練した犬」にも「冒険的な犬」にも、
「話のわかる犬」にも、「おもしろい犬」にも
なれるということなのだ。

「犬も歩けば棒に当たる」は、また輝いてくる。
犬、という「とるにたらぬもの」の象徴でも、
歩いてさえいれば、ナニカシラになっていく。
そういう希望に満ちたことばにも思えてくる。

「歩いてきた犬」に対して、
その歩き方はまちがっているとか、
ろくな棒に当たらないね、だとか、
文句を言うことはいくらでもできるはずだ。
もともと「とるにたらぬもの」が、
わけもわからず歩いているのが、
ふつうの人の、ふつうに健康な人生だものね。
しかし、歩き続けてきた犬は、
えさを見つける能力も少しずつ増しているし、
何より足が丈夫になっているから、
歩けるエリアだって拡大していくというものだ。

年を取った人にいろんなことを相談できたりするのは、
否が応でも歩かざるを得ない日々を、
彼らがたくさん送ってきたからだろう。
歩く必要があって、いやでも歩いてきたということは、
けっこう、後々になるといいことなんだと思う。

犬に喩えられるほど「とるにたらぬもの」としての人間が、
たいして長くもない、せいぜい百年足らずの人生を、
歩いて歩いて「ナニカシラ」になりかけて死んでいく。
小さいけれど、おもしろいことだよなぁと思うのだ。

さまざまな商品やサービスが、
「あなたは何もしなくてもいい」とアピールしてくる。
しかし、それは犬が歩くことのためには、
じゃまになるとも言えるのではないだろうか。

また、何かをしたらしただけ、
何もしないがゆえに安全地帯にいる者から、
批判や非難を受けることもあるだろう。
その批判が、まことに正義のようである場合もあろう。
しかたがない、としか言いようがない。
非難する者も、「とるにたらぬ」犬なのだけれど、
彼らは、歩かず棒にも当たらないようにしているので、
「ナニヤラタイシタモノ」だと思い込んだままでいる。

犬も歩けば棒に当たる。
いい棒、わるい棒、おもしろい棒‥‥。
歩く犬は、今日も棒に当たっている。
いてててて、とか、言いながら歩いている。


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2004-12-20-MON

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