ITOI
ダーリンコラム

<発見はおもしろい>

突然になにかを発見したときの伝説というものがある。

アルキメデスが、
入浴するためにバスタブに体を沈め、
その瞬間、比重についての発見をし、
「ユーレイカ!(わーかった〜〜っ)」と叫び
全裸で街なかに飛び出していった、とか。
ニュートンが、
リンゴの木からリンゴの実が落ちるのを見て、
その瞬間、万有引力の法則を発見した、とかね。

たぶん、そういう話というのは、
後世の人たちが創った物語なのだとは思うけれど、
もともと「おおむねわかっていた」ことが、
なにかの偶然をきっかけにして、
表面に浮かび上がるということは、おおいにあると思う。

アルキメデスやニュートンのように、
歴史的な大発見ではないことでよければ、
ぼくも、よく「ああ、そうかぁ!」ということがある。

小さいことばかりだ。
たいしたことないことばかりなのだけれど、
いったん発見したことは、
そのまま「もうひとつの視点」となって、
たいしたこともないぼくの日々を、ちょっと変えていく。

どんなことか、それをひとつでも
具体的に書いたほうがわかりやすいかもしれない。

たとえば、痛い目にあったときには、発見がある。
誰でも、ケガをしたことがあると思う。
眠れなくなるほど痛みのあるケガをしたこともあるだろう。

大人になってから、足の親指にあたる指の爪を、
そっくりそのまま剥がしてしまったことがある。
サイパンに行ったときだった。
ごく気軽な釣りをしようと、海に入って、
水に足をつけてうろうろ歩いているときに、
ひょいと滑って転びそうになり、
どこかに足をぶつけたのだった。
打撲の痛さはなんとなく感じたのだけれど、
足の爪が、指に対して垂直に生えているのを見た瞬間、
いやぁな感じだったなぁ。
しばらくは痛みも、さほどではなかったのだけれど、
治療して、安心してからのほうが痛かった。

痛いのは足の親指の部分だった。
しかし、足の親指にいつも注意をはらっていると、
痛みを忘れることがなくなってしまう。
だから、できるだけ、痛みのある足の親指のことを
考えないようにした。
しかし、なかなか忘れられるものではない。
足の指先といえば、身体にとってのはじっこだ。
いかにもはじっこらしいはじっこである。
そんなところに、多少のケガがあったからといって、
身体全体の体勢には影響がない‥‥と思われやすい。
だが、同じことを経験した人ならわかるだろうけれど、
足の指先にケガがあるだけで、
歩き方が変わる、寝方が変わる、入浴の仕方が変わる。
どこかにケガがあるだけで、
身体中の血液の流れも変わっている。
精神的にもやや過敏になっていたと思う。

足の親指の先という、その一部分がケガしたら、
ケガをしていない「足の指先以外のぜんぶ」が、
非常事態の動きになるのだ。
そのときの痛みについて、いまはもう忘れているから、
想像して言うしかないのだけれど、
たしか、歩き方が変わったせいで、
ふくらはぎや太股や、尻のあたりの筋肉が
とても疲れたような気がする。
ズキンズキンとくる痛みは、その患部から発信されて、
身体のあちこちを駆け巡り、
肩や首のコリになったりもする。
「えらいこっちゃ」は、身体全体なのである。
しかし、治療は、足の親指のごくごく小さな一部分だけだ。
しかも、これは消毒をして
被害をここまでに止めるというだけのものだ。
医師は、足の親指を診てはくれるけれど、
そこからつながって起こる肩コリや首のコリ、
脚やらケツやらの筋肉の疲れや、
ひいては「なんか毎日疲れるわ」については、
まったく治療してくれるものではない。

以上のようなことを、ぼくは「発見」などと、
おおげさに言っているのだ。
つまり、この場合の発見とは、
「足の指先にケガをしたら、身体全体が疲労する」
ということだ。
ただ、これをつくづく感じてからは、
その考え方をもとにして、
いろんなことを見るようになったというわけだ。
視点がひとつ増えたのだ。

これは、こんなふうに応用できる。
またまた野球の喩えになってしまって恐縮だけれど、
スポーツならなんでもいいや、
選手の誰かがエラーしたとする。
そのエラーのせいで、敵軍に得点を与えてしまった。
その選手の心はとても痛い。
出場機会の限られた選手だったりしたら、
もしかするとその瞬間に
人生が変わってしまったかもしれない。
そのエラーした選手が、足の親指なのである。
で、他の選手全員が、「足の親指以外のぜんぶ」だ。
そして、「足の親指以外のぜんぶ」は、
エラーでとられた分の得点を返さなくてはいけない。

身体ぜんぶが、「足の親指」を心配し続けても、
痛みも引かないし健康にもならない。
ダメージをのみこんで、いい結果を出すようにする。
おそらくそんなふうに、野球チームは動く。
だから、ぼくが監督だったとしたら、
エラーをカバーして戦った選手たちの
精神的肉体的な疲れが、どう癒されるべきか
ということについて考えることになるだろう。
つまり、エラーした選手を責めたり同情したり、
直し方を考えたり、ということも必要なのだけれど、
それにも増して重要なのが、
エラーしなかった選手たちの疲労について
想像することなのだ。

いま、大河ドラマの『新選組!』を見ていると、
登場人物たちが、あちこちよく斬られてケガをしている。
最近では、近藤勇が肩のあたりを鉄砲で撃たれた。
ドラマを見ていても、ぼくは
「あの肩以外の身体ぜんぶも、たいへんなんだろうなぁ」
とか思ってしまう。
「これは、近藤勇の得点能力が相当に下がっているな」
というような判断も加えてしまう。
それでも、気丈に頑張ろうとしている近藤を見ると、
たいしたものだなぁ、と感心してしまったりしている。
さらにさらに言えば、
肩を撃たれた近藤勇を欠いた新選組という組織が
どれほど大きな疲労を感じているか、について
思いを馳せたりもしてしまう。
戦場で、大将が傷つくということは、
大将本人のダメージ以上に、
戦隊全体のストレスを最大にしてしまうんだなぁとか、
そんなことも考える。

さ、もともとのところに戻ろう。
ひょんなことから、
なにかを「発見」するということはあるもんだ。
そういう話だった。
アルキメデスやニュートンとはちがうけれど、
発見というのは、おもしろいもんだ。
ん? そういう終わり方になっちまったか。
ま、いいか。

あ、「ま、いいか」というのはいい言葉だなぁ。
自分の墓碑銘に、「ま、いいか」と刻んでもいいくらい、
すてきな言葉だと、いま、発見した。

墓碑銘というのは、もっと研究されてもいいな。
日本の墓に、なかなか墓碑銘が見たらないというのは、
どういう意味を含んでいるんだろう?
日本の社会では、
煎じ詰めた考えを明らかにするというのは、
戦術的に不利だということなのだろうか。
ちょっと興味あるなぁ。
ま、いいか。

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2004-11-15-MON

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