ITOI
ダーリンコラム

<はじっこ随想>

「はじっこ」というものが、気になってしまった。
気になりはじめたきっかけは、
みなもと太郎先生のマンガ『風雲児たち』だった。
このマンガで描かれている沖縄と、
樺太や北方の島々、そして北海道には、
特別なドラマが凝縮されていた。
どちらも、日本の「まん中」を守るために、
犠牲を強いられたという歴史がある。
沖縄も、北海道も、日本のはじっこなのだ。

日本という国の例でいえば、
江戸とか、大阪とか、京都とか、名古屋とか、
まん中のほうに為政者の「本部」が置かれていて、
そこだけは守るようなシステムが築かれていた。
これは、おそらく現代でも同じようなものだと思う。

人体の比喩で、心臓を守るというようなことなのだろう。
つまり首都が、心臓であったり、脳であるということだ。
逆に、はじっこというのは、おそらく指先だ。

指先というのは、人間にとって特別なものだ。
目の前にあるものが熱いかどうか調べるのに、
人は、指先でまず触れようとする。
そこで触れるものが、とても熱いものだったら、
指先はやけどしてしまうだろう。
やけどするかもしれないと、知りつつ、
ぼくらは指先に斥候の役割をさせるのだ。
おなじ一人の人間の身体の一部でありながら、
指先は、傷ついてもしかたがないという扱いを受ける。
これも、指先がはじっこにあるせいなのだ。
人間にとっての指先というのは、
とかげにとってのしっぽのような扱いだったりする。

敵の側からすると、
「とどめを刺せ」などというときに、
指先を攻撃することはない。
闘いのなかで相手を倒そうとしたら、
心臓なり、頭なりを破壊するものだ。

いや、指先という一部分に
同情しているというわけではない。
指先も我、心臓も我であり、
人間が、はじっこを捨てて生き抜くという戦略は、
なにもおかしいものではないのだろうと思う。

でも、なんとなく、はじっこのことを思うと、
「なにか、はじっこにいいこと」がないものだろうかと、
おせっかいなことを考えたりしてしまう。

心臓も、脳も、背骨も、
具体的に何かを生みだしたりはしない。
たいていは、はじっこにある手や足や、ちんちんなどに、
仕事をさせているものだ。
これは、はじっこが、はじっこであってよかった
ということなのかと思う。

また、心臓も、脳も、背骨も、
外部や他者に触れ合うということがない。
握手をするのは、手がするし、
他国へは足がでかけるし、
男女のつながりは、ちんちんなどがする。

そのかわり、手は手錠をかけられるし、
他所の国では捕虜になるし、
男女の間ではさまざまな罠にかかったりもする。

人間にも、性質として、
まん中に寄って生きるタイプと、
はじっこにいたがるタイプがあるような気がしてならない。
どちらも、別のおもしろさがあるんだと思うけどね。

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2004-03-08-MON
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