ITOI
ダーリンコラム

<食えるということ。>

おなじ哺乳類の動物でも、
食用になる動物と、食用にならない動物では、
人間の見る目がちがう。
牛を見る人々は、かわいいだの大きいだの
という感想とは別に、
「おいしそう」という目で彼らの死骸を見る。
 
金魚は、魚だし、食えないはずはないと思うけれど、
食わないという約束になっているせいもあって、
食えない魚という扱いになっている。
金魚はフナだから、甘露煮にしたらうまいのだろうが、
金魚を食おうという人はいない。
金魚を食ったことがある、なんて言ったら、
たぶん「だいじょうぶだった?」と訊かれるだろう。
毒があるはずのもないのに。

よくよく考えてみると、
ほとんどの生きものは、
この世に存在するあらゆるものを、
食えるか食えないかで見分けているのだ。

人間だって、歴史のなかのかなり時間を、
食えるか食えないかに費やしてきた。
おそらく、第二次世界大戦を経験した世代くらいまでは、
飢える可能性を、いまでも考えにいれているだろう。
「絶対に食っていける」という自信のようなものが、
これほど当然視されるようになった時代というのは、
たぶん長い人類の歴史上で、
いまが初めてなんじゃないだろうか。

ぼくは、「飢える可能性」を思え、
というようなことを言うつもりにはなれない。
ぼく自身も、「食べる」ことについての心配は
まったく意識の外にある。
先の先に、どうなるかはわからないけれど、
いまの日本に住んでいる人で、
「食えない」ということを本気で心配している人は、
ほとんどいないだろうと思う。

それが、悪いことであるはずはない。
食えない人がたくさんいる、というのはいいことじゃない。
みんなが食えるのは、いいことだ。
そのことを前提として、言うのだけれど、
「食える」と決めつけられるように、
人間の身体はできていない。
日本にいる人間が、
食う心配はないと言えるようになって
まだせいぜいが30年くらいのものだ。
頭ではすっかりその気になっちゃっているけれど、
身体のほうは、まだ「食う」の優先順位が
めっちゃ高いままなのだ。

だから、過剰にカロリーを摂ったら、
「もったいないもったいない」とばかりに、
脂肪としてためこもうとするし、
エネルギーは十分足りているのに、
次々に食物を摂ろうとしてしまう。
そういうことは、みんなうすうす気付いているはずだ。

しかし、気付きにくいのが、
その逆の場合なのだ。
「食えるように」「食えますように」「ああ食いたい」
というような欲望が根底にあったからこそ、
人間は工夫したりガマンしたり、まめに動いたり、
勇気を出したりしてきたとも言えるのだ。
しかし、アタマのほうが食うことに安心しきっていると、
歴史的にずうっと長いこと使い続けてきた能力が、
「塩漬け」にされたままになってしまうのだ。
たとえば、足も、手も、その筋肉も、脳も、
もっと「使われる」ということで存在しているはずなのに、
食うに困らないと思われている時代には、
使われる機会を失ってしまっているのだ。

青春期の男子なら誰でも覚えがあるだろう。
「あるのに使えない肉体」が、
「使え!」とばかりに叫ぶのを知っているだろう。
その特定のほんの一部分が、
カリカリ、いらいら、むんむんしたのと同じように、
他の身体も、「もっとオレを使ってくれ」とばかりに、
いらいらいじいじしているのだ。

「エサを獲る能力」が塩漬けにされたままで、
食べる心配ないという意識で日々を生きている人間の、
身体か脳か、どちらかにひずみがくるのは当然だと思う。

「人間はハングリーでなくちゃダメなんだ」とか、
「彼のすごみは、あのハングリーさにある」
なんて言い方があるけれど、
そこで言うハングリーとは「貧乏」のことだ
なんて考えてはいけない。
「食う」ことへの執着。
「食える」ということが、全力を尽くさないと
できないことであるという気持ち。
そういうものが、あるかないか、これこそが問題なのだ。

では、「食う」への根本的な欲望を取り戻して、
身体と脳のバランスをとるにはどうしたらいいか。
その第一歩こそが、
文字通り「歩くこと」だと、ぼくは思っている。

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2003-11-24-MON

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