ITOI
ダーリンコラム

<楕円はいいぞ>

いつごろからだったか、
楕円のイメージで、いろんなことを考えるようになった。
楕円というものの、数学的な定義はよく知らないが、
中心軸が2つある円というくらいに思っている。

とても原始的な楕円の描き方というのがあって、
それも、なんだか気に入っている。
aとbという2つの点を、たるんだ糸で結ぶ。
糸のたるみをなくすような感じで、鉛筆を差し込む。
いったん、これでabc点をつないだ三角形になるわけだが。
さて、糸をぴんと張ったまま鉛筆を動かしていくと、
あらま、楕円が描けるというわけだ。

中心が2つあると、きれいな楕円になる。
これは、こどもゴコロに、うれしい発見だったっけ。

社会に出てから、いろんな場面で、
人々が、中心1つの円の構造を思い浮かべて
いろんなことをイメージしていることがわかる。

モノゴトに、起点となるような原因があって、
それが拡大していくと、円がどんどん大きくなる、
というようなイメージで、
いろんなことが話されている。
これ、ややこしい言い方をすれば、
同心円的拡大ということになる。

中心がひとつ、というのは、
まとまりがよくて、確固としていて、安心感がある。
大きな宗教でも、
イエスというひとりを中心としてキリスト教があり、
ゴータマ・シッタルダというひとりを中心に仏教が、
マホメッドというひとりを中心に、イスラム教がある。
会社では、創業者がひとりいて、
それを中心にして成長していく。
そんなふうに、イメージが形成されているものだ。

でもね、よくよく調べてみるとわかるのだけれど、
必ず、「もうひとり」の存在があるんだよね。
ヒトラーにとってのゲッペルスであるとか、
井深大にとっての盛田昭夫であるとか、
ホームズにとってのワトソンとか、
有名な「ふたつの中心」の例もあるけれど、
そうでない例もたくさんあるように思われている。
しかし、一見、たったひとりを
中心としているように見える場合も、
知られていない「もうひとり」という中心が、
うまくいった組織には必ずあったのではないかと、
ぼくは思っている。

もしかしたら、ひとりの人間が、
自己分裂的に、もうひとりの役割をしている場合とか、
組織の外部に、ワトソン君にあたる人を持っている場合とか
実は、家庭のなかにヒラリー夫人を抱えているとか、
変形した楕円構造もあったのだろうとは思う。
だけど、それも、やっぱり楕円の構造なのだと思う。

同心円的な広がりというのは、腐りやすい。
一気に、大きくなるには、都合がいいのかもしれないが、
円が閉じやすいために、
外部の変化と関係なくなってしまうのだ。

1つの中心でなく、2つの中心を持つ楕円は、
もともとが、一枚岩でない。
中心どうしが、別々なのだから、
ひとつの考えや動機が広がっていくわけではない。

人間の社会だって、実は楕円構造だ。
男がいて、女がいる。
世界という楕円は、もともと男と女という
2つの中心をもった楕円なのだとも言える。
男女がひとつになってしまったら、
おそらく、世界は一気に発展して、腐って死ぬだろう。

ぼくは、いつも、楕円の構造を意識して動いてきた。
とにかく、いつも中心をひとつにしないようにしてきた。
円になったら腐るぞ、と、自分に言い聞かせていた。
ほんとうは、中心をひとつにして、
円を描くようにしていたほうが、
無駄なことをしなくていいのだと思っても、
もうひとつ、たがいに邪魔になるような中心を、
探してでも持つようにしてきた。

京都に自宅を引っ越そうか、ということも、
地域的な中心点
ふたつにしようとしているのかもしれないし、
家庭と仕事という楕円をイメージしているのかもしれない。

詳しくはわからないし、
それぞれに事情もちがうのだろうけれど、
自宅にひきこもっている人たちというのも、
もしかしたら、ひきこもる場所を2ヶ所にしたら、
何かが大きく変わるんじゃないかなぁとも思うのだ。

会社がおもしろくない人は、
もうひとつの仕事をタダでもいいからと
はじめてみるとのもいい楕円をつくるきっかけになりそう。
男女の関係が息苦しくなったりすると、
犬や猫を飼いはじめるのも、
無意識で楕円をつくろうとしているのかもしれないよ。

とにかく、一色はいかん。
純粋とか、たったひとつの中心を信じるとかはいかん。
というのは、ぼくのたったひとつでない信念さ。

2003-06-16-MON

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