ITOI
ダーリンコラム

<はじめに差ありき>

いまも「ほぼ日」で好評連載中の
『会社はこれからどうなるのか』という本の企画がある。
ぼく自身が、この本をやたらにすすめたがる理由のひとつは
先日、このダーリンコラムで
『人とモノということ』というタイトルで書いた。
いわば、経済のことを語るための前提になるような
哲学の部分について、まずは感心してしまったわけだ。

でも、それだけでは、まったく足りないわけで、
もう少し「経済書」であることを伝えておきたくなった。
すでに読み終えている人には、
くどく感じられるかもしれないし、
知識として「そんなことは常識だろう?」という人も、
きっと大勢いるのだと思うのだけれど、
経済の素人としてのぼくが、
「なんと簡潔な、なんと的を射た解説なんだ」と
恐れ入ってしまった部分について書きたい。
いまさら、ということに感心しているのだとしても、
これまでぼくの読んできた同種の本には、
こんなことは書いてなかったのだから、
それをみんなにもおすそ分けしたいと思ったのだ。

それは簡単なひと言だ。
「利益は差異から生まれる」ということだった。
当たり前だ、と思うだろうな。すみません。
でも、ぼくにはインパクトがあったのだ。
「利益は差異から生まれる、という一面もある」ではなく、
「利益は差異から生まれる」というだけ。

少し、引用をまじえて言うと、
“資本主義とは、
 利潤を永続的に追及していく経済活動のことです。
 資本主義の歴史は古い。
 それは、マルクスの言葉を借りると、
 「ノアの洪水以前」から、
 「商業資本主義」という形で存在していたのです”
つまり、5000年以上も前の古代メソポタミアの時代でも、
ユーフラテス川を行き来したり、
ラクダに乗って砂漠地帯を渡ったりして、
遠く離れた場所の間で貿易をしていた商人がいたという。
一方の地で安いモノを、もう一方の地で高く売る。

“商業資本主義とは、
 二つの市場の間の価格の差異を媒介して
 利潤を生みだす方法にほかならないのです。”

 そして、その

“太古に商業資本主義が発見したこの原理は、
 商業資本主義にのみ通用する原理であるのではありません。
 それは、じつは、すべての資本主義に通用する
 資本主義の一般原理なのです”


という決めポーズのような文章から、
またまた、スリリングな展開がはじまる。

ある場所のモノが、その場所では安いけれど、
他の場所に持っていったら高いということは、
わかりやすいことだ。
それが、この先は
「人の働き」についてということに続いていく。
つまり「産業資本主義」にも、当然のように
「利益は差異から生まれる」の原則が成り立つ。

工場ができて、そこでモノをつくる仕組みができると、
働き手(労働力)が必要になる。
ここで、人を雇う値段の安いところから、
人を雇い入れて、モノをつくるようにする。
そこで安くできたモノを、売ればいいというわけだ。
安い労働力は、どこにあるかといえば、
“それを歴史的に保証したのが、
農村における過剰人口の存在です。”
ということになる。

そう。かつかつの食うだけという状態にあった農村では、
工場のある都会で仕事があれば、
そこに働き口を求めて移動するのも自然のことだった。
「口減らし」にもなったし、
天候や環境の変化に左右されて手間のかかる農業よりも、
確実に給料のもらえる工場の労働者になったほうがいい。
その農村からの働き手は、安い労働力として、
利益のみなもとになっていった。

“産業資本主義とは、結局、
 産業革命によって上昇した労働生産性と
 農村の産業予備軍によって抑えられた実質賃金率との間の
 差異性を媒介して利潤を生みだす方法に
 ほかならなかったのです。”


その構造が終わりになるのは、1970年代だったという。
“その理由は、明らかです。
 産業資本主義の拡大は、いつかは産業予備軍を
 使い切ってしまいます。”

工場で働く人たちの実質的な賃金が上がっていって、
労働生産性との間の差異性を縮めてしまったということだ。
給料が高くなると、安くモノはつくれなくなる。

その時代の感じを、ぼくは思い出す。
1967年というのが、ぼく自身の大学に入学した年だ。
そのころの大学には、
「家が農家をやっている」という学生がいっぱいいた。
当時のドキュメンタリー映画などを観ると、
ほとんどの学生が、どこか土の匂いのする顔をしている。
農村を支えてきた人たちが、息子や娘を、
「都市で働くために有利な学問や資格」を
身に付けさせるために大学に送りだす時代だったのだ。
そういった息子や娘は、もはや安い給料の労働者ではない。
坪内祐三さんが、最近
『一九七二年
「はじまりのおわり」と「おわりのはじまり」』

という意欲的な本を出したけれど、
ここで語られている時代のかわりめというのは、
経済学者の岩井さんの目からすると、
「産業資本主義のおわりとポスト産業資本主義のはじまり」
というふうに言えるということらしい。

モノをつくるということが、
賃金の差を利用して利益をあげられなくなってきた社会は、
「差を探しては利益を生みだしていく」ということを
意識的にせざるを得なくなってくる。
「新しい市場」「新しい組織形態」「新しい技術」
という具合に、差は「あるもの」ではなく
「つくりだす」ものになっていく。
つまり、ポスト産業資本主義の時代がはじまった。

それは、「新しい」何かを探し、つくりだすことで、
差をつくっていく社会で、「新しさ」が価値なのだ。
“どのような独創的な製品も、最先端の技術も、
 画期的な組織形態も、未開拓な市場も、
 いつかは必ず他の企業によって模倣されたり、
 改良されたり、追従されたり、参入されてしまい、
 その差異性を失ってしまうからです。”


最初に戻ってもいい。憶えていると思う。
「利益は差異から生まれる」のみなのだ。
他のものごととの「ちがい」だけが利益を生み、
それがなくなったら利益を生まなくなる。
そういう時代のなかに、ぼくらはいるわけだ。

そういえば、と思うだろう。
特許や知的権利についての訴訟や法律についてのニュースが
とても目立ってきているのも、
あちこちでやたらに「ブランド論」が語られるのも、
差異性が生みだす利益をめぐる攻防戦である。
同じ時期に、前の産業資本主義時代の大企業が、
リストラという「再構築」を図っていることなども、
時代の大転換にともなうひとつの現象だということだ。

好むと好まざるに関わらず、
いまこの時代に生きているぼくらは、
こういう「産業資本主義の次の時代」にいて、
差異を生んだり、
差異を生んだことの権利について戦ったり、
差異を消費したりしているわけだ。

そういうことを、いま現在の自分の仕事に応用しても、
自分の考えを整理するきっかけにしても、
無性に腹を立てて世を儚んでもかまわない。
いまいる「場」が、いま生きている「時」が、
どういうものなのか、が、わかると恐怖は減ると思う。
深海の潜水夫たちが、いちばん怖いのは、
周囲の状況がまったく見えないときだという。

あんまり長くなりそうなので、このへんにしておくが、
こういうことが書いてあるのは、
『会社はこれからどうなるのか』という本の
第七章「資本主義とは何か」の一部分である。
前に書いた「人とモノ」のことは、
第二章「会社という不思議な存在」の
書きだしの部分をきっかけして、
ぼくが妄想をふくらませて書いたものだった。

連載企画での岩井さんとの話では、
この本を書いた岩井克人さんのココロの部分にある
「動機」みたいなものに触れたくて、そんな話をしている。

今回は、この一冊の本のセールスマンみたいだけれど、
ふだんは絶対に経済の本なんかに興味を持ってないはずの
うちのアホ娘にもわかるようにと書いたつもりだ。
ぼくが、みんなにこの本を読んでもらいたいと思っている
気持ちが、少しはわかってもらえたろうか?

ただね、予告編的に、この本の別の章についても、
ちょっと触れておこうか。
パラパラッとめくって、適当に選んでおく。

“すでに何度もくりかえしていますが、
 おカネで買えるものよりも、
 おカネで買えないヒトのなかの知識や能力のほうが
 はるかに高い価値を持ちはじめている
 ポスト産業資本主義においては、
 おカネの重要性が急速に下がっているのです。

2003-05-26-MON

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