ITOI
ダーリンコラム

<人とモノということ>

このところ、ぼくは、
岩井克人さんの

『会社はこれからどうなるのか』という本を
強く人にすすめている。
「ほぼ日」でも、インタビューをお願いしたり、
特集的なページをつくって広報活動をしている。

この本に、ぼくが強くのめりこんでしまった理由は、
ビジネス書として役立ちそうな各章はもちろんなのだが、
その前提になる部分のほうにあった。

「会社というのは、人でありモノである」ということ。

人は、モノを、自分の勝手にどうしようとかまわない。
しかし、人は、人を、自分の勝手に扱うわけにはいかない。
この「人とモノ」との関係を大前提にして、
次に「会社は、人でありモノである」ということの
説明に入っていくというイントロダクションが、
ぼくにとってこの本の最大の魅力だったのだ。

ここからスタートするからこそ、
その後に展開される理論が、身にしみてわかる。

アメリカでの一般的な価値観になっているらしい
「株主主権主義」というものが疑わしいものであるとか、
「会社」というやつがどうあってどうなっていくのかとか、
資本主義というのは、どういうものなのかとかが、
知識としてではなく、
「とてもわかりたいこと」として立ち上がってくるのだ。
ま、ぼくなんかが言うと照れちゃうようなことなのだが、
「まず、哲学ありき」で書かれた本だからこそ、
真剣に読めるし、説得力があるのだと思う。

この一見「経済」の書を手にしたことをきっかけに、
ぼくは自分の興味で、勝手に
「人とモノ」ということについて想像して遊んでいる。

まず考えはじめたのは、性のことだった。
もともと、人の性的欲望というのは、
いったい何なんだ?ということについては、
ずっと考え続けていたのだけれど、
その考えの途中に、
この「人とモノ」の関係を当てはめると、
とてもスッキリすることに気づいた。

あんまりしつこく書き連ねても、
ここではお呼びでないことになりそうだから、
とても簡単にしてしまうけれど、
「人は、なぜ
見ず知らずの女のおっぱいや、顔や、性器に
欲情できるのか?」
というあまりに大きな問題に、
「人とモノ」という関係をひいてくると、
見えてくるものが多いということを思ったのだ。

見知らぬ女のおっぱいを「ええなー」と思っている男は、
そのおっぱいを、モノとしてとらえている。
そして、そのことを女たちは知っていて、
おっぱいばかりをじろじろ見つめられたり、
おっぱいばかりをほめられると、
「失礼ね!」と思うということになっている。
それは、お○○○だったら、もっと露骨だし、
顔にしても、スタイルにしても、
実は同じことではあるはずだ。
それらは、人の一部分ではあるけれど、
いくらその人を象徴といっても、
その人そのものとは考えられていないわけで、
ワタシと切り離されても成り立つおっぱいというモノ、が
男から求められていると知った女が、
怒るのはもっともな話ではある。

こういうことを言ってもわからないという男には、
逆に考えてもらえばいいと思う。
女たちが、ちんちんのいっぱい写った雑誌を見ていて、
「やぁ、待った」とか出会ったとたんに、
じっとキミの股間に目をやって「ダーイ好き!」と言い、
そこに手を伸ばしてきたりする。
そういうシチュエーション。
(いや、これはこれで悪い気はしないというのが、
また事実であったりもするので、
この喩えは意味なかったかもしれない)

おお、やっぱり、話が長くなってきた。
急いで、話をはしょると、
おおよそ、エロティシズムというのは、
実は「人と人との関係」のなかにではなく、
「人とモノ(に変化した人)との関係」のなかにのみ
存在するのではないかということを、
ぼくは思っていたのだ。
相手を少しでも「モノ」として見られなかったら、
欲情することはかなわないのではないだろうか。
これは、むろん、ぼくの勝手な仮説だろうし、
ただの思いつきなのだけれど、
愛と性欲の間には、一筋の川が流れているような気がする。
つまり、なんというか、その、
愛しているよと言いながら、前がふくらんでいるのは、
相手をモノ化する川を渡っているのではあるまいか、と。

以上が、性における「人とモノ」との関係について、
ぼくが漠然と考えたことだけれど。
エロティシズムについての考察は、難しすぎるよなぁ。

さて、この「人とモノ」という考え方は、
もっといろいろ応用できる。

人類最古の「機械」の発明とは、
軍隊というかたちの組織だと言われている。
組織は、人が互いの関係を
「モノどうし」として結ぶものだ。
人は、人として相手に扱われるものだけれど、
軍隊のような組織の構成員になった場合には、
「機能するモノ」に変身する。
むろん、その機能をしていない時間には、
戦場における友情もあるだろうし、
好ましい上官やら、たのしい食事だってあるだろう。
しかし、組織の最も単純なかたちとも言える
「バケツリレー」でイメージすればわかると思うが、
人が組織の一員として機能している時には、
モノとモノとの関係にならなければ、
目的は達成できないのだ。
このことは、おそらく、
情報産業といわれる「知的労働」を中心にした組織でも、
根本的には変わらないと思われる。

仕事はたのしい、と、いくら言ったところで、
たのしいのは、仕事から解放されたよろこびや、
仕事をしていく間にある遊びや、
仕事で何かを達成したときのうれしさや、
仕事を通して得たごほうびや、
仕事をうまくやったことで一目置かれる快感や、
ごほうびを溜め込んでいるという安心感など、
ぜんぶをひっくるめての「仕事はたのしい」なのである。
自分という「人」が、「モノ」になることそのものが
たのしい、というわけではなさそうだ。
やっぱり、自分から進んで「モノ」になろうというのは、
人には、合ってないのではないだろうか。
ま、ちょっとねじれた快感として、
「モノ」化するヘンタイ感覚というものなら、
案外ありそうな気もするけれど。

人とモノとの関係で、もっと切実なのが、
「敵と味方」という関係を生みださざるを得ない
「戦争」だろう。
味方は「人」で、敵は「モノ」だと思い込むことで、
戦争は成り立つものだろう。
モノに対してだからこそ、銃も撃てるし地雷も埋められる。
さらに言えば、生物化学兵器を使うことだって、
相手がモノであるとしたら、なんの不思議もない
と強く抗弁することだってできる。
実際に、原子爆弾は、ほんとうは人が暮しているはずの
二つの都市に向けて、ほんとうに落とされたことがある。
そのとき、人々は、モノとして考えられていたのだ。
そうでなければ、できることではない。
実際に飛行機を操縦して爆弾を落とした操縦士は、
それがモノに対してではなく、
たくさんの人たち向けて落としたものだということを、
感じざるを得なかったようだけれど、
その場に立ち合うことなく、戦略として
「落とすこと」を決めた人たちには、
おそらくその感覚はなかったろうと思うのだ。
人が、人を人と感じるためには、
会うこと見ること触ることなど、
同じ空間に身を置くことが
とても重要なのではないかと思う。
「想像力で補え」という考え方もあるのはわかるけれど、
想像力というのは、モノを人に変えることもできるが、
人をモノに変えることだってできる両刃の剣である。

戦争で、「敵(人)」を「モノ」に見立てて殺すことは、
もうひとつの変化を生みだす。
「人」を撃つ人は、
人を撃つことができるという意味で、
そこで、人に備わった人らしさを消し去った
「モノ」に変化させられているのであると、ぼくは思う。

戦争は、殺される人と、殺す人の両方を
「人」から「モノ」に変化させることで成り立つ
とんでもなく「人でなし」な行為なのだ。

(人は「人を殺すという属性まで含めて」人である、
という考え方もあることは理解できるけれど、
ぼくは、それは「人類」をモノ化させた考えだと思うのだ。
実際に、そういう説を唱える人は、
自分や自分以外の人ののど元にナイフを突きつけて、
そのまま刺し貫くことができるだろうか。
人であるままで、それはできないように
「人はできている」と、ぼくは思う)

こうやって考えていくと、
人は、さまざまなシチュエーションのなかで、
自分も含めた「人」を、「モノ」にして生きている。
それをまったくしないで、
いまの社会は成り立っていかないのかもしれない。
しれない、なんかではなく、
実際に成り立ってはいかないだろう。

人とモノとの関係について、
ぼくには、こんなふうなことを考えることまではできても、
何かいい方法を見つけたわけではないし、
人として美しく生きることを決意したわけでもない。
ただ、いろんなことを考えるのに、
「人とモノ」というキイワードを思いつくことが、
これから先、うんと増えるのではないかと思う。

ひとつだけ、強く意識していたいと思うのは、
「人をモノとして扱った人は、自分がモノになっている」
ということである。

岩井さんの『会社はこれからどうなるのか』から、
話は、とんでもない方角に進んでいったものだ。
でも、そういうふくらませ方ができるように、
この本は、とても大事な、
根源的なことを核にして書かれていると思うのだ。

2003-04-28-MON

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