ITOI
ダーリンコラム

<公平と不公平について>

このへんのことを書くと、
何かあったんですか、と後でよく訊かれるんだけれど、
「ないです」と、まず、言っておきます。
ずっと長いこと、会ったことのない大勢の人たちと、
会話をし続けていて、
「いつかこういうことを書こうかな」と思っていたことを、
いま、書きはじめてみただけです。

ま、うまく言えるかどうかわからないけれど、
とにかく書きだしてみます。

「全員が満足する結論なんてないよ」とは
よく言われることだけれど、
やっぱりできることなら、
みんなが満足しているほうが、
自分にもみんなにも気持がいい。

清らかな瞳で、「この恋が実りますように」と
お祈りしている乙女がいたら、
「ああ、うまくいくといいな」と、思ってしまうけれど、
彼女の願いが実現したら、
同じ男性に恋をしている他の乙女だかおばさんだかの願いは、
叶わないということになってしまう。

この寒い今ごろってのは受験の季節で、
「みんながんばれ」ということも言うけれど、
定員のある学校で、それ以上の入学希望者がいたら、
みんなが望み通りに入学できることはありえない。

「私を好きにならないあなたは、まちがっている」
「ぼくを入れない学校に抗議する」
「だいたいあなたの恋愛は不公平でしょう!?」
「不公平な入学試験に、断固として反対する!」
というようなことを言うわけにはいかない。
だから、ま、だいたいは、言わないものだ。

前に、お国の官僚の方々といっしょに仕事することがあって、
よくみんなが批判するような
「官僚のやり方」や、「官僚的な考え方」を、
ちらちらと見せていただいたことがある。
そのときに、ある意味ですごく感心してしまったのは、
「公平」ということに対処する彼らの能力だった。

例えば、ホームページの紹介の文章に、
「こういう大きなサイトが」というような部分があると、
それは、相対的に
「小さなサイト」に不利に働く場合があるので、
表現を変えてほしいというようなこと。
これに「気付く」のが、まず、スゴイと思った。
「小さなサイト」という立場の人から抗議がきたら、
困るだろうという予防策として思いつくのだろう。
おそらく、どういう方向から、どういう抗議がくるのか、
瞬間的に想定できるように鍛練しているのだと思う。

正直に言うけれど、こりゃ「ある意味ですばらしい」、
とさえ、その時のぼくは思った。
あらゆる人たちの公僕として役人はいるわけなのだから、
全部の人に公平であるように考えられるというのは、
それはそれで、すばらしいことなのかもしれない。

その意味では、「大きいサイト」という表現をした人は、
公平な考え方のできない人である。
論争になったり、裁判で争ったらどうなるのか知らないけど、
勝ちにくい立場を取ってしまっている、とも言える。

だけどさー、やっぱり、公平を限りなく求めることと、
公平を限りなく守ろうとすることっていうのは、
ほんとうは無理なことだと、ほんとうは誰でも知っている。

例えば、ある絵画について、すばらしいと言うことがある。
しかし、その絵画を見られない立場の人がいる。
音楽についても、そうだ。
音を聞くのに不自由な人には、
音楽をたのしむことがむつかしい。
こどもを持つよろこびを語っている文章を、
こどもの産めない夫婦が読むことだってある。
祭りのよろこびを語っているときに、
病床にある人もいる。

そういった事情をぜんぶ考え合わせたとき、
ぼくらは何を言えばいいのだろうと、思う。

受験がうまくいった人におめでとうと言うと、
「ぼくは落ちました。そういう人間がいることも、
もっと考慮してくれてもよいのではないでしょうか」と、
マジメに書いてくる人のことを、
ぼくはどう扱えばいいのかわからない。
いちばん本音のところで言えば、
「そんなこと言ってくるな!」という気持が近い。
オレならそういうことは言わないな、ということだ。
会ったこともない人間にまで甘えるんじゃねーよ、
ということだ。
しかし、そういう感想を持つ人もいるんだということを、
知ってしまうので、
次からはちょっと気をつけて書くかもしれない。

実際には、音楽のたのしみを語ったときに、
耳の不自由な人から不公平を訴えられたこともないし、
目で見る何かについて書いて、
目のわるい人から何か言われたこともない。
言ってくるのは、
「そういう人が読んでいたら傷つくぞ」という
他人からの忠告だ。
そういうことでも、
言われていい気持はしないし、
誰かを傷つけたらもうしわけないという気持に、
多少でもなるだろうから、
そういうことを意識した表現をしてしまうかもしれない。

そういう表現の延長には、
「官僚の表現基準が最高」という世界が見えてくる。
優秀な彼らの表現には、
とにかく公平に思われるような「方法」があるからだ。

もちろん、そういうふうになりたいとも思わないし、
そうならないように、逆に気をつけているつもりだけれど、
おおぜいの人を相手にしているうちに、
近づいていく危険性はいつも感じている。

もともと、ぼくは「毒舌」という「芸風」を
卑怯だと思っている人間なので、
自分が敵と決めた人間に対して、
どんなことを言ってもいいとは考えないし、
思ったことならなんでも表現するべきだとも思わないが、
「思いやりの化け物」みたいになっていくことは、
気をつけなくてはいけないと思っている。

『あらゆる不公平のなかに、機会(チャンス)がある』
みんなが、そんなとらえ方をしていたら、
おもしろくなるんだろうなぁ。
「では、戦場の飢えた子供たちに、
どんなチャンスがあるというのですか?」と、
これまた言われそうな発言ですけれどね。
(と、こういうことを思いついちゃう自分に疲れるわ)

2003-01-20-MON

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