ITOI
ダーリンコラム

<ポテンシャル価値論>

このごろ、どういうわけか「ほぼ日」の西本乗組員が、
「ぅわかったぁ」って連発していて、うるさいくらいである。
なんか、いろいろ世界やら自分やら、現在やらが
わかってしょうがない時期なんだという。
何をどうわかったのか、教えてもらおうとするのだけれど、
こちらの理解力不足なのか、よくわからないことが多い。
きっと情報と情報が、つながる瞬間に、
「わかったぁ」と声が出ちゃうんだろうね。
つながって、それがかたちになるには、
もうちょっと熟成の必要なことが多いんだな、きっと。

で、そんな人の影響を受けちまったのかもしれないけれど、
ぼくも、いろいろと「わかったぁ」の多い時期で、
そういうことのひとつひとつを、
じっくり研究したりしていたら、
いい学者や評論家になれるのかもしれないけれど、
ぼくの場合は、研究はテーマじゃないから、
おおざっぱにわかったことを、
実行していくのがたのしいし、人様のお役にも立つと思う。

そんな、点滅中の「わかったランプ」の点いた事柄から、
今回は、ひとつだけ、文字に書き留めてみます。

「ポテンシャル価値説」っていうんですけれどね。
まだ、考えて間もないので、
言い方とかが練れてなくて、読みにくいかもしれないけれど、
許しておくんなさい。

さて。

いままでの世の中の価値観というのは、
「パワー価値説」だったのではないだろうか、ということで、
それは、いろんなかたちで表現されているわけだけれど。
例えばの話、総理大臣はパワーだったはずだし、
大企業もパワーだし、身体のでかさもパワーだ。
テレビというメディアもパワーだし、大新聞もパワーだ。
この価値がなくなったということは言えないとは思う。
現実に強いものの近くには、人は集まるし金も集まるから、
いまだって、大きな価値の基準になっている。
特に、ビジネスのうえでは、
パワーを持つ、パワーに乗るというのは、
これからだっておおいに価値であり続けるだろう。

だが、いま、「事実上の最高の価値」になっているのは、
「ポテンシャル(potential)」というものだと、
ぼくは思うのだ。
可能力だとか、潜在力だとかいうふうに訳せばいいのかな。
見えるパワーそのものでなく、「まだ見えないパワー」
というふうに言ってもいいかも知れない。
仮に、横綱がパワーの象徴だとしたら、
いずれ横綱を倒しそうに思える小結、なんて感じかな。
「できるかもしれない」というところにあって、
実際にはまだほんとうの力は見えないのだけれど、
見えないがゆえに、いまあるパワーよりも
もっと爆発力があるように感じられる。
そういうものに、人々はポテンシャルを感じ、
期待し、価値を認めて、応援してしまうのだと思うのだ。

「ポテンシャル価値説」からすると、
大きいこと、強いことそのものの価値はそんなに高くない。
それは、新しい価値を生みだすことよりも、
それ自身が生き延びていくことを目的にして、
生き延びていくことになるように思える。
ただ、大きいこと、強いことのなかに、
ポテンシャルがまったくないかと言えば、
そうでないこともおおいにあるわけで。
ポテンシャル価値説からいえば、
大きくて価値がないのは止まっているもの、
大きくて価値があるのは変化しているものだ。
変化というのは、それまでの自分自身を
少しずつでも否定し続けることでもあるわけで、
それができたら、ポテンシャルがあるということだ。
ぼくの知っている何人かの「老人」たちが、
いつでも変化を怖れず、
それどころか進んで変化を起そうとしているのを見てると、
これは「老人に見える青年」ではないかと思ってしまう。
青年というところに、ポテンシャルがある。

答えは完成されていないのだけれど、
「答えを発見すべき場」がイメージできる。
それが、開拓されるべき新市場というものなのだ。

それは、新大陸発見のようなものだ。
そこに大きな大陸があるから、船を漕ぎだす。
だが、その大陸は、すぐに家を建てられるように
整地されているわけではない。
タネを蒔くための畑が用意されていることもない。
しかし、おおぜいの開拓者たちを養える可能性のある
大陸というものの価値は大きい。
これがポテンシャルというものだと思う。
パワーというのは、これに対して、
いまあるいい土地をたくさん所有しているという状態だ。

パワーが、いま現在を量る単位だとしたら、
ポテンシャルは、未来を量られる単位である。
しかも、ポテンシャルが生まれる起点というのは、
「意志」であり、「動機」である。
いくらパワーがあっても、動機のない力は、
無駄に拡散していくだけだけれど、
ほとんど現在のパワーがなくても、
強い意志がありさえすれば、ポテンシャルは生まれる。

よく、先に年齢を重ねた大人たちが、
若い人を目の前にして、
「いいねぇ、どんなふうにでもなれる可能性があって」と
しみじみ言ったりするのだけれど、
あれは、ほんとうは、自分にも言えることなのだ。
「どんなふうにでもは、もう、なれない」という考えは、
パワー価値観からの発想なのだ。
「どんなふうになりたいか」という意志は、
いつでも、それを思いついたときから生まれるはずだ。
そこにポテンシャルが生まれる。
ただ、「どんなふうになりたいか」というビジョンの
実現のためには、時間と労力のコストがかかるので、
60歳の人が「世界一」を狙うためには、
相当に時間がないことも確かである。
ただ、無理かもしれないけれど、
彼が、ビジョンに向かって意志を持ったならば、
必ずポテンシャル(可能力)は、発生する。
志半ばにして、彼がこの世を去ることになったとしても、
彼は「世界一になる途中」で死んだだけということなのだ。
たいていの人は、道の途中で命が尽きたりするのだから、
その意味では、60歳からポテンシャルを獲得した人は、
とても価値ある人生を生き直したということも言える。

一時流行した「勝ち組・負け組」というのは、
とんでもなくイヤな言葉だった。
それこそが、パワー価値説そのまんまだったと思う。
新しい価値を生みだすということに、
「勝ち組」も「負け組」もない。
ポテンシャル価値観からしたら、
勝ちとか負けではなく、可能性があるかないかが問題だ。

どの高さまで上ったかよりも、
彼の方向が頂上に向かっているか、
またその方向に進む意志を持ち続けているかが、
ポテンシャルというものなのだ。
そのポテンシャルが、自分に感じられたら、
あらためて、こう訊ねてみよう。
『おまえ、本気で自分に投資できるか?』と。

パワーへの投資は、よくて何割増しの配当だけれど、
ポテンシャルへの投資は、
何倍何十倍の実りがあるかもしれない。

2003-01-13-MON

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