ITOI
ダーリンコラム

<泣かせをなめちゃいけない>


思わず涙がこぼれたときに、
その涙がでてきた理由を、人はどうしてわかるのだろうか。
ま、誰かがそばにいれば「どうして泣いてるの」とか、
訊かれるかもしれない。
そのときに、かならず「どうして」かを説明できるか。
ぼくには、かなり難しいことだ。

悲しいから泣いた、とか、
うれしくて泣いたとか、くやしくて泣いたとか、
いちおう、自分がなぜ泣いたのかについて
大人はタイトルをつけて整理するけれど、
はたして、その涙とタイトルの関係は、
ほんとうなんだろうかと思う。

娘がまだ小学生の低学年だったころ、
大人もこどももたくさん集まるイベントに連れていった。
山梨方面だったかなぁ、小学校に宿泊して、
みんなでキャンプのようなことをしたのだった。
騒ぎに騒いで、遊びに遊んで、疲れ果てて東京に戻った。
祭りの後のけだるさを、いっしょに行ったバカ共も、
静かに噛みしめていた。
ふと、娘を見るとぼろぼろぼろぼろ涙を流している。
おあつらえむきに、夕日が沈む頃だった。

「どうしたの。なにが悲しいの」と訊いてみた。
「わかんないの」と言いながら、泣いていた。
「悲しいんじゃないの?」と言っても、
「わかんないの」と、泣きやまない。
「じゃ、ほっとけばいい?」と、父であるぼくは訊いた。
「うん」というから、そのままにした。
いまだに、何が泣いた理由なのかはわかってないのだが、
あれはほんとうに「わかんない」ものだったのだと思う。

喜怒哀楽と、感情を4つに分類して、
どういうときでも、その感情のうちのどれかだというのは、
いかにも乱暴な発想だ。
つまり、それはあらゆる涙にタイトルがつけられるという
考え方と同じなんだと思う。

ぼくは、自分の涙の理由を説明できないように思う。
映画やらビデオやらを観て、あるいは本を読んで
泣くことは大好きとさえ言えるのだけど。

自分のなかに、名付けようもないけれど
突き上げてくるような感情の昂ぶりがあって、
そいつが涙腺をひっぱるということ。
これは、自分のなかの密林を探検しているようで
ほんとうにおもしろい。
これをくりかえしていると、だんだんと
自分にとって、どういう刺激が
自分を泣かせるものかが、見えてくる。
だけど、やっぱり、泣きの動機はほんとにはわからないのだ。

感情には、くっきりした色もないし、
かたちも見えない。
そして、どれくらいの昂ぶりがあるかという分量も量れない。
なのに、さまざまな自然や人工のきっかけで、
その不定形の感情というやつは、噴出したり
にじみだしたりしてくるのだ。
これは、ほんとうに興味深いことだ。
どんな人間も、そういう感情というやつを生みだす
深い森を抱えている。
その森があることをたしかめるのは、
おそらく性的な快感に負けないくらいに
気持のいいことなのだと思う。

自分が、どういう状況に、どういう言葉に、
どういうヒントを引きがねにして泣きだすのかについては、
かなり興味がある。
それは、自分にも見えない自分のなかの深い森の
地図を描くような作業だ。

よく半端な発言として、
「人を笑わせるのは、泣かせるより難しい」であるとか、
「お涙ちょうだいで受けをとるのは、ずるい」とか、
簡単に言うむきもあるけれど、
人間の感情の森から、涙という泉を湧きださせる表現が、
そんなにやさしいことだと思ったら大まちがいだ。
例えば、「いい映画じゃないけれど、泣ける」というのは、
十分に商品価値もあるし、
それはそれでなかなかたいした表現技術の結果なのだ。

おそらく、これはある種の「ポルノグラフィー論」に
限りなく近いものなのかもしれない。
人の性的な感情が、どういう引きがねによって
噴出するか、長持ちするか、記憶されるか、
などなどについてしっかり吟味されるとしたら、
ポルノグラフィーという表現をなめられないはずだ。
「裸だしたり、エロで人を釣るのはキタナイ」と言っても、
それはそれで、高い水準に達するものをつくるのは
並大抵のことではないはずだ。
「泣かせる」についても、そういうものだと思うのだ。

おそらくぼくは、
「わかんないけど、うまく説明できないけど、
とにかく泣けて泣けて」
と言われるような作品を、これからも求め続けることだろう。

2002-10-14-MON

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