ITOI
ダーリンコラム

<目から詩が。>

ホテルのラウンジで、窓際の場所にいて仕事をしていた。
大きなガラスの壁ごしに、広くはない池があって、
そこには、瀧がしつらえられている。
3階くらいの高さから、人口の岩肌にぶつかりながら、
大量の水が滑り落ちてきて池の表面に衝突している。

目で見ているのは、高いところから落ちてくる水だ。
これを見ている人間は、意識してないのだけれど、
さまざまなイメージをこころに刻み込むことになる。
水の冷たさ、激しく衝突するエネルギー、透明、
高さ、摩擦感、岩肌の猛々しさ、細かい霧、波。
目から入ってくるイメージの信号は、
漠然と、確とは整理されないままに、
「そんなふうなもの」としておおざっぱに
こころにしまいこまれる。
そこから読み取ることを強要するようなメッセージは、
そこにはないのだけれど、
なにかを思ったり考えたりするための材料が、
投げ出された状態で、そこにある。

海を見つめたがる人間たちは、
目のなかに飛び込んでくる海のイメージを、
ただただ受けとめてこころにしまいこむ。
いや、耳やからだぜんぶを使って、
海をこころのなかに取り込んでいるのだろう。

いま瀧を見ているぼくは、
壁に貼ってある瀧というタイトルの詩を、
読み続けているようなものだ。

海を見ている人は、海という詩を読んでいるところだ。
「これを読み取れ」とは言わない詩が、
目の前にあると、ぼくらはそれを
まるごとこころにしまいこむ。

海の近くで育った人は、毎日のように
海という詩を読み続けて育った人だから、
その詩を感じながら、その後の人生を歩いて行くだろう。
いつも山の見えるところに育った人たちは、
やっぱり、山の詩を読みながら大きくなっている。
読み取るのが、高さなのか、大きさなのか、
壁なのか、緑なのか、険しさなのかはわからないけれど、
山という抽象詩を読みながら育ってきたことで、
彼の個性には「山」の詩が含まれるようになるだろう。

都会の真ん中で生きている人の読み続ける詩は、
人と建物をテーマにしたものになるのだろう。
雑踏という詩、群衆という詩、商品という詩、
広告という詩を、日々読み続けることも、
やはり彼のこころに大きな影響をあたえるだろう。

いま、ぼくはこうしてひさびさに瀧という詩を読んだけれど
いつも東京にいるときに読み続けている詩は、
道や、建物や、テレビの向こう側や、
なによりも人間関係の詩が多い。
ぼくの普段の暮らしのなかで、
ぼくのこころの壁に貼りだされている詩は、
やたらに数が多くて、そのほとんどが
人間についての詩なのだと思う。

いまごろの日本では、たくさんの人々が、
同じように桜の詩を読んでいる。
春が近づくと、そろそろ桜の詩を読むころだなぁと
みんなが思い出して、いそいそしはじめる。
そして、おおぜいが満開の桜の下に集まって、
リフレインの多い単色の詩を過剰に感じ、
この季節だけのめまいを味わうのだ。
いつも目の前に見えている、同僚の詩や、家族の詩や、
せちがらい仕事の詩に飽き飽きしている人々が、
シンプルで鮮やかな桜色のかたまりを目に入れて、
祭りの詩でこころの大掃除をしているのかもしれない。

あらま、時間がずいぶん経ってしまった。
「すいません、コーヒーをもうひとつください」
着物という詩を着たおねえさんに、
ぼくは声をかけた。
コーヒーという詩を飲んだら、次に仕事にでかけます。

2002-03-25-MON

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