ITOI
ダーリンコラム

<情報百姓と脳作物>


長くなるし、曲がりくねっているけど、よろしくね。

まずは、落語のように「マクラ」から。

古くからのともだちの呉智英というおやじが、
「封建主義の復権」みたいなことをずっと言っている。
彼に「そんな浅薄なまとめ方は迷惑だ」と
怒られるかもしれないけれど、
すっごく簡単に言えば、
『社会のリーダーシップをとる人間は、
優れているなりの誇りと自己犠牲を当然とせよ』
ということと、ぼくは理解している。
イギリスなんかの騎士道精神に近いのだと思う。

ま、呉先生は、ぼくのことを、
「懸命な八百屋のおっさんは教養はないけれど、
時として生活のなかから真実に近づくことがある」
という意味でぼくのことをたまに認める
ということらしいので、
八百屋のおっさんの解釈に文句を言うこともなかんべや。

歴史の進化を、
A段階から、B段階に発展していってC段階に至る、と
考えるやり方は、一見、通りがいいのだけれど、
そんなに一直線にはならないんじゃないの?
ということをよく思う。

つまり、日本の社会も、
A>封建主義的な社会から、B>民主主義的社会になって、
さてその後はC>超民主主義かしらん?
という直線的な考え方でいえば、
現在はBからCに向かっているところなのだから、
Aのことなんかとっくの昔に終わっているよなぁ、
と考えるのが普通だけれど、
「いやいや、Aのすべてを捨てちゃったBって、
ぜーんぜんダメだったじゃん?!」というのが、
呉先生とかの考えなのだろう。

このあたりから、本題ですかな。

で、さて今回は封建主義のことを言いたかったのではなく、
農業のことをちょっと思い出したりしているのだ。

ぼくが、前に烈火のごとく推薦した(なんだ、この比喩?)
『情報の文明学』という本で、
梅棹忠夫さんが、
生物の個体発生と社会の発達をアナロジーして
説明している部分があった。
また、引用はぼくですから、
ちゃんとしてない可能性はあるよ。

『人間で言えば、はじめは一個の精子と卵子の結合である。
まず、それが内胚葉をかたちづくる。
いわばエネルギーを摂りいれて排出する
消化器を中心とした「内臓系」ができるというわけだ。

そして、それから発達した「中胚葉」ができていく。
手足に代表されるような「筋肉系」ができあがる。
食物をこれで摂りに出かけたりできるようになる。
これは運動系とも言える。

その後に、「外胚葉」が形成される。
これは皮膚や「神経系」とにあたるもので、
そのうちの最大のかたまりが脳である』

以上のような内胚葉→中胚葉→外胚葉の発達を、
人間社会の発展の歴史に重ね合わせて読みとるところが、
(当時は苦笑されたようだが)
この論文のクライマックスだ。
「内胚葉→中胚葉→外胚葉」を、
「農業社会→工業社会→情報社会」への発達と考えるのだ。
ぼくの言い方に置き換えれば、
「食う→作る→知る考える思う」となるかなぁ?

テーブルに整理すると、
・内胚葉・中胚葉・外胚葉
内臓系筋肉系神経系
食う作る動く知る考える
農業社会工業社会情報社会

ということになる。
当時1960年のはじめは「情報」という言葉さえ
いまのような使われ方をしていなかったので、
この考えは「SF的な冗談」のようにとらえられたらしいが、
現実には、約40年後のいま、
予言が成就したかのように、
この論文で語られた世界が、「たしかにここにある」。

ここまでは、いいのだけれど、
これが、どうも観念的に語られると、
間違った方向に行っちゃうんだよなぁ。

どういうことかと言えば、
『情報社会というのは、
工業と農業をすべて消し去った場面に
成り立つわけじゃいのよね』、ということが、
つい忘れられちゃうのです。

それは、
「メシも食わない、一歩も動かない、脳のみの存在」が、
当たり前の人間とは言えないだろうということさ。
(動かない動けない人への差別なんかじゃないからね、
こんなところで揚げ足とられているわけにはいかないよ)

例えば、インターネットが発達すれば、
というような話のなかには、「脳神経」だけで
世界が成り立つかのようなコンセプトが、
しばしば登場する。
「いっくら世界を情報でつないだからって、
情報をやりとりしているやつも腹が減るんだよー」
というツッコミをいれたくなるような記事がけっこう多い。
あの大震災の時でも、情報ネットワークが生きていて
ほんとにいろんないいことがあったけれど、
例えば食料を運ぶのは工業製品である自動車だったし、
なくてはならない米やパンは農業と工業の産物だ。
さらに、お風呂に入りたいとか
ちゃんとお化粧したいという精神の願いは、
インターネットで解消するものではない。

要するに、外胚葉の発達は、
中胚葉や内胚葉の要請によって起こってきたものだと
考えるとちょうどいいのかもしれない。
そうなってくると、
オフィスでいつもコンピュータの画面に向かって
仕事をしている人が、「なに食おうか」と考えるように、
「からだがなまってるなぁ」とジムに行くように、
自分の仕事や考えのなかの、
内胚葉的な部分や中胚葉的な部分を、
もっと大事に考えていかなければならないだろう。

これは「失われゆくものへの郷愁」として
考えることではない。
脳神経系は肉体にのっかっているから、という
当たり前のことを、当たり前にやるために、
必要だと思うからというだけのことだ。

カルチャーというのは、もともと農から来た概念だ。
種をまいて育てる。
さらには、天候や土地といった偶然の要素が
大きく関わるような不安定な作業だ。

ぼくらは、農作物をつくるように、
手間ひまのかかる面倒でジミな百姓仕事を、
「スピード」の時代に併行してやっていかなければ
ダメなんだろうなぁと思う。

素人玄人が集まってつくった脳作物の数々を、
「ほぼ日」という路上売店に並べていくという感じかなぁ。

ITビジネスの先達の皆さん、
「これからは、コンテンツの時代ですから」とか、
口で言うのは簡単ですけど、
脳作物は、いつでもどこでもカネさえあれば
買ってこられるっていうものでもないんですよー。

情報百姓のおらたちは、そう言わせてもらううだよ。

2000-07-03-MON

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