ITOI
ダーリンコラム

<ほんとは、まだ「みんな」じゃない>

今回は、ものすごく「ナマ煮え」な考えを、
書いてみたくなりました。
反論も異見も、いくらでも出るでしょうが、
参考にだけさせてもらいます。

こどものころに、欲しいものがあると、
「みんな持ってるもん」と言った。
これはもう、こどもがものをねだる時の
様式みたいなもんで、
そういうことは、「みんな」が言ったものだろう。

で、その親たちも、自分がこどもの時代には
同じようなことを言ったおぼえがあるものだから、
そういう場合のツッコミ方も様式として身につけている。
「みんなって、誰と誰?!」
こどものほうは、ぎくっとする。
順番にみんなの名前をあげていくが、
数人程度の氏名を声にだしたところで、つっかえてしまう。
親は、その沈黙にくさびをうつように、
「ほら、それだけでしょ?!」と、フィニッシュを急ぐ。
「ちがうよ。あと・・・」
「あと、誰よ?」
「・・・山本くんも、持ってる」
このあたりで登場する名前は、だいたい嘘である。
せっかく嘘をついても、ひとりやふたりが精一杯だ。
「それだって、みんなじゃないじゃないの!」
負け、である。
みんなが持ってるものなんか、
あるはずがないのである。

いまのインターネットというのは、
こういう会話のなかにでてくる
「みんなが持ってるもん」のひとつのような気がする。

ビジネス雑誌なんかを読んでいると、
「みんながインターネットをやっている」ように思える。
さらに最近では、へたすると、
「みんながインターネットをやっている時代は、
もう終わりつつあって、
いまは、みんながiModeの携帯電話を使ってる」
みたいに書いてあったりする。
ほんとかよ。

同時に、はっきりと数字で、
「日本のインターネット人口は、1500万人」とか、
わりあいに明確に数字で書いてあったりする。
・・・おいおい。
ちっともみんなじゃないじゃないか?!
「みんなって、誰と誰よ?」と、
親に言われた時のようにつっこんでみたい気もする。

猫も杓子も宇多田ヒカルのレコードを買ったように
言われているけれど、これもみんなじゃない。
たったの600万枚だろ?
・・・すっげぇ、けどねー。

いま現在、「みんな」のように見えている1000万人が
インターネットで動いている状況と、
ほんとに日本中の「みんな」がインターネットに
接続している状況とでは、たぶん
まったく様子がちがうのだろうと思う。

Eコマースがどうだとか、IT革命がこうだとか言う以上に、
もっともっと大きな変化が、
ほんとにみんながネットにつながったときには、
やってくると思っているのだ。

インターネットの通信や流通の、
ほんとうの媒体とは、実は「ことば」なのである。
電話でも、電子メールでも、
その他のどんなコミュニケーションでも、
「ことば」というかたちにしたものを、
それぞれのメディアに乗せて送受信している。
いまは、知識人のことばと、町のことばが、
混ざり合いながらインターネット上に流れている。
(画像などのイメージや音楽もある、なんて
つっこまないでくれ。
それも、別の意味でことばだ)

ぼくの夢想によれば、
すべてが町のことばになる時代が、
やがてやってくる。
乱暴に聞こえるかもしれないけれど、
それが、ぼくの考える歴史の必然なのだと思っている。
上からのことばと、下にあったことばとが、
いつか合流して同じになると考えているのだ。
例えば、英語は、もうそれに近い状態になっていて、
口語らしく口語(町のことば)を使いたい人々は、
上から下りてきたことばと、下のことばを区別したくて、
わざと「汚して」ことばを使ったりしているようだ。

時代劇を見ていればわかるけれど、
昔は、武士と町人とでは、口語そのものが違っていた。
「ござる」とかしゃべっていたのでござる。
しかし、いまは、
きっと東大学長の蓮見重彦センセイでも、
「ごはんはまだかな」とかしゃべっているだろう。
文章のときだけは、ああいう表現を書くのだ、おそらく。
そうでなかったら、おかしいもん。

みんながインターネットにつながる時代というのは、
そこのところを、ことばが平らになることを、
考えにいれながら想像しないと、
ダメなんじゃないかと、ぼくは思っている。
これは、ほんとに、
とんでもなく大変な革命になるはずだと思うよー。

こういうこと考えると、
長生きってしてみたくなるんだよねぇ。

2000-03-06-MON

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