ITOI
ダーリンコラム

<願いごとが必ず叶う>

この話はもう何度も何度もしゃべっているんだけれど、
「ほぼ日」でこそ書いておこうと思ったので、
ぼくのともだち連中は、
「また言ってるよ」と思わないでくださいね。

昔、じぶんの父親がガンで入院している時に、
「かならず願いが叶う大黒様」ってやつを受け取った。
大阪のほうにいるおもしろい人からの贈り物で、
とにかく必ず成就するんだという。
必ず叶うんだという。
必ず叶うから、叶ったら次の人にそれを渡してやるのだ。
そういう摩訶不思議にして霊験あらたかなモノだという。
こういう話を、簡単に信じる人は少ないだろう。
ぼくにしても、眉唾だったのだ。

しかし、その時期のぼくは、
怪しかろうが不思議だろうが、
結果が出るならそれをやってみてもいいという
あせりの気持ちが勝っている時期だった。

むろん、いまでも科学やロジックだけが
人間に大切なものだとは考えてないし、
科学的に否定されていることのなかに、
何かいまはわからないけれど未来にはわかるような
可能性が隠れているかもしれないと思っている。

だが、決して親孝行な息子ではなかったけれど、
父親がいなくなるかもしれないという事実は、
自分の考えや行動に大きく影響していたと思う。
特に、その時期は、
個人的な不倫スキャンダルのまっ最中だったし、
そのストレスも関係していたのか喘息がひどくて、
目に見えないものにすがりたいという気分が強くあった。
多くの喘息患者がそうするように、
まじないまがいの療法や、民間療法、
新興宗教じみた自然食や祈祷にも、
治るかもしれないと思えば、通ったものだった。
これに、父親の食道ガンが加わったら、
親切にこの危機を回避する方法を教えてくれる人々も、
それまで以上に多くなっていた。
上州の雷さまに一喝をくわえて、
「あんまり騒がせない」ように静かにさせたお婆さんにも、
一度は会いに行ったりもした。
もちろん、そういうことをおもしろがっちゃう気持ちと、
これで治るなら、苦笑もせずに言うことを聞きますという
殊勝な心構えとが半ばしていたのだけれどね。

そんな時期に、安っぽいけれど、俗世間の祈りや願いを
たっぷりしみ込ませたような大黒像が、
ぼくのところに届いたのである。
「困ったもんだなぁ」と知識人ぶったものの、
ひとりになってその大黒様を見ると、
「なんと願えばよいのだろうか」と、熟考しはじめた。

「父の病気が治りますように」でいいじゃないか、と、
その立場にいない人なら簡単に言ってくれるにちがいない。

しかし、そうはいかないのだ。
いいですか? 絶対にその願いが叶うのですよ!
<その願い>が叶うことが、本当に大事で、
それ以外のことがどうなってもいいのなら、
ぼくは躊躇することなく父の病気回復を祈ったろう。
だが、父の病気がほんとうに治って、
その代わりにたとえば娘の命が失われたら、
それでいいと言えるのだろうか。

死を宣告された父親が、回復すると言うことは、
ある種の奇跡なのである。
その「正のありえないこと」が成就するなら、
別の、「負のありえないこと」だって、
ぼくの周辺に起こりうるということだ。
それが起こってもいいから、父を治してくれと、
ぼくは本気で祈れるだろうか。
よくドラマのなかでは、
「私の命を捧げますから娘を助けてください」というような
母や父の台詞が書かれる。
そういう条件付きの願いではないのだから、
ぼくの受け取ったインチキ臭い大黒は始末が悪い。

強く願うということは、残酷なことである。
こころから願う人の祈りは、同時に呪いでもある。
日本語の「いのる」という言葉には、
「いのり殺す」というような、呪いと同じ意味がある。

その大黒に、ぼくは願ったか。
結局、なにも願わず、
何を願ったらよいのかについてさんざん対話して、
彼の摩訶不思議を手放してしまった。

神仏が頼りにならなくて、
人間にはかえってよかったのだとわかった。

それではその後、ぼくが何も願わず何も祈らない人間に
なったかといえば、ぜんぜんそんなことはなく、
小さな祈りやせこい願いを、
当てにならぬ神さまに時々小声で語りかけては、
「ハズレーッ!」とからかわれているのです。

2000-02-28-MON

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